翌日は、淳が同じ陸上部の先輩に捕まってサボることができなかった。香子は図書室へ行かず教室で待っていることにした。そこへ、山下佳奈がやってきた。

「あれ、佳奈ちゃん、今日図書委員当番じゃない?」

「変わってもらった」

「そうなの?なんかあった?」

「うーちゃんと話するためだよ」

家に泊まりに来たときに姉と意気投合して香子の呼び名を教えてもらった佳奈は、ときどき香子を「うーちゃん」と呼んだ。

「え、あたし?」

「うん。だって今日塾ないでしょ?だから水沢待ってんじゃん」

「そうだけど、なに、昼休みに言ってたこと?」

香子は、今日の昼休みは、そういえば佳奈ちゃんにバレンタインをどうすべきかを延々聞かされていたな、と考える。

「いんや、バレンタインのことじゃなくてさ」

「うん?」

「ここ3日くらいさ、なんとなーく、挙動不審な感じするからね」

「ありゃ」

「水沢と喧嘩かなと思ったけど昨日とか一緒帰ってたし、それはないなと思って・・・どうした?」

「あー、ごめん、気にしてもらっちゃったか」

「うん」

「うーん・・・あのねえ、なんか、親の仕事の都合で転校のようでしてねえ」

「え、うそっ」

「本当。でねえ、こう、ちと鬱入っていて、んで水沢に聞いてもらってたのさ」

香子は、他人の前では淳のことを「水沢」と呼ぶ。淳も香子のことを「川島」と呼ぶのだ。

「え、ああ・・・それは、結構しかたがないものねえ」

「うん。で、残れんかなあ、とか、一人暮らしできないかなあ、とか」

「ああー・・・無理だわなあ」

「でしょう。まあ、でもね、結論出すまでいろいろぐるぐるしてたの」

「なによお、水沢に相談はして私には結論だけですか」

「はっは、しょうがないじゃん、余裕がなかったのさ」

「ちぇー、友情は男に負けるのですね」

「すまんね」

「しれっといって、もうー。・・・でも、さびしいかな」

「・・・そうだね」

香子は、山下に結論として引っ越すことを話せて、自分の考えが整理できたことを感じた。なんだ、私にとっては、もう、結論は出ていたんだ、と。

その日の帰り道で、香子は淳に、引っ越すことに決めたと伝えた。淳は、香子が時々やるのをまねたように眉根を寄せた。でも、納得したようで、安心したようでもあった。

「引っ越してもさ、連絡は一応取れるようにしておくよ」

「…本当はさ、いつも遊びに行ったりできるといいのにな」

「それを言い出したらきりがない」

「そうだな。俺って未練がましい」

「って、まだ1ヶ月以上あるのに」

「そうか」

「そうそう、それにほら、来週は大問題のバレンタインだよ、いかん、これにかまけていて何の用意もしていないぞ?」

「え、うそ、これからやってください」

「あはは、そうだねえ」

できるだけ日常を大事にしよう。淳を大事にしよう。

残った時間を大事にしよう。香子を大事にしよう。

それを忘れたくない。

翌日も、香子は塾を休んだ。淳も部活を休んだ。そして二人で学校から少しはなれた河川敷へ行き、延々と歩きながら、本当はもう結論の出てしまっている問題について話し合った。

「お金はさ、何とかなると思うんだ。・・・いまさらなんだけどさ、夏に会った二人組み、覚えているだろう?」

「うん、久々利さんと江田さん」

「あの人たちと同じ仕事をするのはどうかな」

「霊能者もどき?」

「そう。俺と香子なら、多分かなりいける」

「それは、そうだね」

「あの二人も月に10万くらいはって言ってた。俺らが本気になって仕事をいつもやれば、香子が一人暮らしする分くらいはいけると思う。二人暮らしでもいけるだろう」

「いけるよね。広告なんか見たけど、月5万円でも結構ちゃんと家があるもんね」

「食費って、大体3万円で足りるかな・・・。それに光熱費で1万円くらいかな」

「服もあんまり買わなければいいもんね」

「病院も、行くようなことないもんな」

二人とも、実現可能性がないことはわかっていたが、えんえんと二人で暮らすことについて考える。

「でも、部屋、中学生じゃ借りられないよね」

「電気とかの契約もできないよな」

「てことは、親の了解がないとやっぱダメか」

「だなあ」

そしてしばらく無言で歩く。河川敷を端まで行って堤防上の道路へ上がり、橋を渡って対岸の河川敷にまた降りる。歩いているうちにまた話が始まる。話が詰まる。また堤防に上がり、橋を渡る。

「親の反対押し切って家を出るんだから、最悪家出だし、お金とか出してもらえるって期待しちゃダメだよね」

「うん・・・」

「だとしたら、高校のお金もいるね。俺はダメだけど、香子だと勉強で奨学金のあるところいけるかな」

「でも制服代とか要るね」

「そうか、高校は私立だと特に結構高いって聞いた」

「教科書代とかも。塾はやめるしかないかな・・・やっぱうちらって親に守られてるよねえ」

「そうだな・・・まだ義務教育中なんだなって思う。仕方ないけどさ・・・」

「・・・親の庇護なしじゃ、まだ、やってけないのかな」

「バイトとかしまくって・・・普通の高校生はできないね。特に俺ら、普通じゃないバイト考えてるし」

「うーん、大学とかも無理だな。高校の間に大学の入学金はたまらんでしょう」

「香子成績いいのにな・・・」

「でもいい大学で授業料免除取れるほどではないと思う。まして今みたいに余裕もって勉強できる環境じゃなくなるのに」

二本の橋の間を3周したところで日が落ちた。川岸は急に寒さを増した。

「帰ろうか」

「うん」

淳でさえ、荷物を背負ったままの体が痛かった。川面をすべる風は、普通の道で感じるよりも、冷たくて重たかった。淳は、部活に行くよりも運動量多かったかも、と思った。

あまりに理路整然として端的な敬一郎の説明に、香子はため息をついた。自分の中学生の娘に対しても、本当に容赦のないことだと思う。なにより正しすぎてつけこませない、反論の余地を与えないというのが父のやり方だ。こういう物言いに普通は反発するものなのだろうが、敬一郎の言うことは間違っていたためしがないから、自分の性格上反発することもできない。

「・・・そこまで考慮に入れて無理って言った?」

「言った。・・・お母さんは、なんていってた?」

「ダメって」

「簡潔だな。でも多分、僕が言ったことと同じ理由だと思うよ。難しいから、駄目」

「・・・そこまで考えてるかな」

「多分ね。少なくとも直感的にはそう思っている」

「そうか」

「どうして?」

「いや・・・」

「まあ、あと一年だしね、気持ちはちょっとわかる。あと彼氏もせっかくできたし?」

敬一郎がからかうように笑う。

「お父さん、そのことは冗談にしてほしくない。・・・まあそれもあるけど」

「彼氏と離れたくないって言うのは、わかるけど、それが最大の理由ならなおさらやめたほうがいいと思うな」

「何で?」

「別れたらどうする」

「は?なにその後ろ向き」

「耐ショック体勢といってくれ。冗談はさておき、でも、彼氏のために残ったら、別れたら無理した理由もなくなっちゃうぞ」

「・・・いや、普通そこまで考えないし」

「考えておくものなの、大人ならね」

「お父さんは、でしょう?」

「そうだぞー、僕なんかお母さんに振られたらどうしようかいつも考えてあったりするぞ」

敬一郎がオチをつけてくれたので香子は笑いながら立ち上がった。

「ありがとう、もうちょっと考える」

「結論でなかったか?」

「・・・難しい。感情って面倒だね」

「そうだなあ。早く寝なさい、おやすみ」

「おやすみなさい」

香子がリビングを出て行くのを見送りながら、残っているのは感情だけなのだな、と敬一郎は思った。わが娘ながら、理論的で大人びたことが好きなくせに、めずらしい、とも。転勤が多いことはいつも覚悟の上だったはずなのだが、彼女には悪いことなのかもしれない、と少しだけ考え、それから、その考えを頭から振り払った。

香子は自分の部屋のベッドへもぐりこんだ。風呂に入ってからずいぶん時間がたって体が冷えている。うまく寝付けないと、考えが自然にあきらめるべき理由を作ることに向いていく。もう私と淳の考えも分かれちゃってるし、これからギクシャクするくらいなら、こういう仕方がない方法で別れるのはかえっていいかな。淳も仕方がないって言うよね。でもそれでも本当は一緒に居たいのにな・・・。でも・・・。でも・・・。