そこでアナウンスが入る。追いかけるように特急の列車が入ってくる。香子は、荷物を持ち上げると、かばんのサイドポケットから封筒を取り出した。

「はい。最初で最後になっちゃったけど、ラブレターだ」

「え、ラブレター?中身ちゃんとラブレター?」

「うん。まずは読むように。読まずに食べないように」

「ひでえ」

どちらからともなくお互いに一瞬強く抱きしめあうと、香子は降りる客がはけた電車へ向かった。出発のアナウンスが始まる。

「香子」

電車の中で振り向いたところに、淳が封筒を差し出した。

「やっぱ俺らまじめすぎだったな。こういうところまでシンクロしてるしさ」

「・・・ありがとう」

香子が封筒を受け取って淳が一歩下がったとき、発車のベルが鳴り出した。ベルが止み、ドアが閉まる。淳と香子が呆然と互いを見る。距離が離れていく。

淳は、元のベンチに座り、香子の手紙を見た。この手紙がなければ、自分の書いた手紙は香子に渡さなかっただろう。そして、香子と笑いあう機会をまたもてたとしても、どこかで香子と自分をだましていると感じ続けたのだろう。手紙は、自分の名前の表書きと香子の新住所の裏書きのある青緑色の封筒に、薄い水色の便箋が一枚だけ入っている。黒の水性ボールペンで書かれた、小さな几帳面な字だった。もうすでに、香子を懐かしく思っていることを感じながら、読み始めた。

『水沢淳様

こういうことになってしまってごめんなさい。

私も本当に悲しい。淳と離れたくなかった。

中学生だっていうことが、悔しい。

でも、中学生のうちに淳と会えてよかった。

大好き。ずっと、離れてしまってもこれは変わらないから。

私が大人になって、淳も大人になって、私も淳も変わらずいられたら、

ちゃんと今の私たちがいいと思える大人になれていたら、

また会ってください。

どうぞ元気で。きっと会いましょう。

         川島香子』

ペーパークリップの代わりに、香子が大事に使わずにとっていた、深いブルーの古いガラスを飾りに使ったヘアピンがとめてあった。淳は、丁寧に便箋を封筒に戻すと、ヘアピンを生徒手帳に止めてベンチから立ち上がった。

庭に下り、建物の東に行く。そこは春の樹がならんでいる庭で、南へ続いていく池が緩やかに回りこんできている。そこに桜の樹が一本だけ植わっている。

桜は、満開だった。

「すげー・・・」

廃墟の桜は、見事だった。

「これ、今咲いているんだよね」

「え?ああ、もちろん。俺にも見えているよ」

「きれいだね」

「ああ」

「そうか、暗かったしあの時は気づかなかったけど、今は一本しか残っていないんだね」

「え?」

「昔はもっと何本もあったんだ。あの池のほとりに東屋があって、お散歩できて」

「・・・その話は、やめようよ」

「・・・うん」

香子は淳を振り仰いだ。

「そういえばさ、あのふたり、類さんととさらささん。結局ここのこと、報告しなかったのかもね」

「え?」

「あの雑誌、週刊紙だからすぐ記事が載るんじゃないかなって夏銃見ていたけど、それらしい連載は確かにあったのに、ここのことは載ってなかった」

「そっか」

「お金儲けの機会奪っちゃったかな」

「…おれらもさ、あの二人みたいなことしてでも、お金稼ごうって思ってたもんな。もしかしたら、何かお金がいる理由があったのかも。大学では一人暮らししたいとか、霊能力みたいなことを仕事にしたいとか。ほんと、俺、やなやつだな。勝手だ」

じっと聞いていた香子が、反論した。まっすぐ前を向いている。

「あのね、私は、私が見えるものを否定しない。お金儲けとか、正しくないこととかには使わないよ。だって、それは私が私の力で得たものじゃないし、他の人がそれを信じたりいいものだと思ったりできるものでもないから。だけど、そういうふうに利用することと、見ることは別。見えるものは、見えるんだ。だから見えることは否定しないし、それが特別だって使っちゃったりもしない」

「・・・俺が見ないようにしているってこと、反対?」

「ううん、そうじゃないよ。それがどっちでもいいんだ、見ないようにすることも、それで実際に見えているのか、見えないようにできているかも。それは淳が決めることだよ。でもね、私はどうするかっていうこと」

香子は小さく声を上げて笑った。

「でも、もう誰ともこんな話しないんだろうなあ。だって淳がいないんだもん」

淳は、少しまぶしそうに香子を見た。

「そろそろ時間危ないな。行こう」

春の日差しを浴びて、二人は跨線橋を渡り、駅のホームへ降り立った。香子は橋の途中で庭を振り返った。淳も、一緒に振り返った。二人が階段を降りきってすぐに電車が来た。そのまま乗り込む。香子は、私立の6年一貫の女子校の編入試験に受かったからこれからお嬢様学校に通うんだ、今度からお嬢様と呼ぶんだぞ、とふざけた。淳は、香子の場合、女子校でのほうが共学でよりもてそうだなあ、とからかった。お互いに、別れる時刻が迫っていることにおびえて、どうでもいいことしか口から出なかった。それでもたった一駅しかない乗車時間はあっけなく終わってしまった。

「さて。これからどうするんだっけ」

「あと10分で特急が来るからそれに乗って自力でおじいちゃんちまで行くよ」

「何番線?」

「ここ。このホームのまま」

二人で並んでベンチに座る。たった今普通列車が行ったばかりのホームは、次の特急に乗る人間が少ないせいですいている。

「今日ありがとうね。行ってよかった」

「おう、俺も。多分もう行かないしな」

「そうだねえ。だめだよお、男子同士で肝試しとか行っちゃあ」

「行かないよ」

そして、最後の日が来た。

香子が今まで経験してきた引越しでは引越し当日はなんだかんだと忙しいものだが、行く先が父の実家であることと、両親がこれでもう転勤はないのだし最後の引越しだからと片づけまで業者に頼むパックを選択したために、香子と姉は一日自由時間をもらった。姉は、無事に東京の大学に合格して大学寮に入ることができたので同じ寮にはいることになった友達と荷物を運んでいった。香子は、淳と待ち合わせをして最後に夏に行った廃墟に行くことにした。

淳と香子は、無人駅からでて階段を降りていった。廃墟の南向きの庭は、冬枯れのあとの芽吹きでやわらかな緑がみえた。

「そういえばどうしてここに来たかったの?」

「えー、一応、記念の場所じゃない?淳と付き合いだした」

「まあそうだけどね」

もう死者の訴えを聞くことはしないと決めた淳にとってはもう来たくない場所かもしれない。だから、嫌がったら、もう来ないつもりだったが、淳は今の今まで理由を聞くこともしなかった。どうしてだろう・・・聞いていいのだろうか、いけないのだろうか。わからない・・・やめておこう。

「中入る?」

「うん、大丈夫だよね」

「雨戸も開けてみようか」

「いいの?・・・いや、やめておこうよ」

部屋の中は相変わらず真っ暗で日が差し込まないせいで寒かった。時折管理者が来ているようで、夏に来たときに割れていたガラスも直されたようで、雪が吹き込んでぬれたしみができているということもないようだった。部屋の中は思ったより湿気もかび臭さもなかった。持ってきたスリッパを履き、懐中電灯をもって部屋に入った。まずは広縁、そして座敷。

「あ、ここだね、この間来た部屋だね。あのときの人、いるかな」

言ってから、しまったと思った。

「もう見えないよ」

淳が苦笑して言った。なにごともなく笑った。

建物の中が暗いので、本当なら、明るいところよりは淳には見やすいはずだった。でも、淳はかたくなに見ないことにしている。その淳は、部屋の中を見回して、次の間へ入っていこうとしていた。

「ねえ、淳」

「ん?」

「あのときの芸者さん、きれいだったね」

「なに、人影にしか見えてなかったくせに」

「そうだけど、きれいなのはわかったよ」

淳の目線はどこかにとどまることなくただ眺め渡すだけだった。

「そろそろ時間かな、もう心残りない?」

「あ、ううん、メインがね、池の桜の木。見たいな」

前に来たとき、山桜が咲いている像が見えた。実際の樹はもっと古木になっていたが、きっとまだ花をつけるだろう。早く咲く種類だから、きっともう咲いているはずだと思っていたのだ。