そして二人は、喜久子の家を離れて、電車とバスを乗り継いで帰った。1時間ほどの間、二人は喜久子の話をした。茶道はかっこいいねということ、年より若く見えるということ、字がきれいだったということ、今度は着物を見せてもらいたいということ。でも、喜久子の告白については、つとめて話題にしなかった。
香子が落ち着いたころには、もう日は暮れかかっていた。今から帰っても家に着くのは7時くらいにはなるだろう。
「じゃあ、今日はありがとう。聞いておいて、よかったと思う」
香子がふわふわと、普段と違う声で挨拶をする。
「お邪魔しました、ごちそう様でした。ありがとうございました」
淳が、少し落ち着いた声で言う。
「いいえ、そんなにお構いもしませんで。あ、忘れてた、香子ちゃん、今日のお菓子の残り、持っていって。今週末の初釜用の試作のお菓子、どうせ食べきれないから」
「え、どれ?」
「お台所の水屋に、桐箱に入れてあるわ」
「とってきなさいってこと?」
「そうよお」
香子は急に戻ってきた現実感に苦笑しながら台所へ向かった。食べきれないなんて、お菓子屋さんに頼んでわざとあまるようにして、私にもって帰らせるつもりだったくせに。
香子が廊下を奥へ進んでいくと、喜久子は淳にささやいた。
「今日はありがとう。ごめんなさいね、最初は覗くつもりはなかったんだけれど、見えちゃったから」
淳もにこやかに応じる。ここにいるのは、いくつもの生からなる500年を生きて、その混乱に耐えてきた本当に強い人だ。敬意をこめて答えた。
「いいえ、香子が、とても心強いと思ったと思います。彼女が、自分も大丈夫だっていうお手本を持てるから」
あ、香子って言っちゃった、と思い、でも普段そう呼んでることは完全にばれてるんだなと思い返す。喜久子は、微笑んだまま、一段声を低めて言う。
「君は?」
「え?」
淳は、先生をしているという喜久子の目になっていると思った。
「私は、君の参考にならない?」
「…どういうことですか」
「見えるものに振り回されないことを選んで、見える自分を肯定することは、できない?否定しないとだめ?…私は、たくさんの犯罪を見逃してきたわよ」
淳は、再び自分の背筋が凍る感覚を味わった。
「おばあちゃーん、どこー?」
そのとき、奥から香子の声がした。ふっと、空気が緩み、淳は自分の体が動くことを悟った。
「あ、はーい。水沢君、ちょっとまってて」
「はい」
淳は、自分がどもらなかったことに安心した。
「わかんないー?」
声をかけながら、喜久子が台所に向かった。淳は一人、玄関の土間に取り残されて、喜久子の背を見送った。
「ん、水屋、どこ見た?」
「ここ」
入ってきた喜久子に、香子が声をかける。
「あ、そっちじゃなくてね、こっち。お教室用のところ」
喜久子が菓子折りを出してみせる。香子が受け取って、いつも借りている風呂敷に包んだ。
「ありがとう、もらっていきます」
「はい。お母さんたちによろしくね」
そして、また声を低めて言う。
「香子ちゃん、いい人にあえて、よかったね。いい子だね、水沢君」
香子は、喜久子が淳に聞かれないように声を落としたのだと思って、ちょっと照れた。
「うん、そう。すごくいい人だし、尊敬できる。大好き」
「ずっと一緒にいたい?」
「うん」
香子は素直に答えた。
「そう。じゃあ、そのことを忘れないようにね」
香子は、少しいぶかしく思ったが、素直にうなずいておいた。
「…喜久子おばあちゃんは、おじいちゃんとずっと一緒にいたかった?」
喜久子は、穏やかに笑った。
「そうね。ずっと一緒にいられるなら、私も話したかもしれないわね」
なにを、とは喜久子は言わなかった。香子も言わなかった。
「え?」
「その、美江さんとも直接話したことはなかったわ。夢で見たの、しかも彼女がなくなった晩に、彼女の記憶ごと全部ね」
「…一生に見た、そういうものの記憶ってこと?」
「それだけじゃなく、彼女自身も忘れているような、彼女の生きた63年分全部よ」
淳と香子が目を見張る。喜久子にとっても、初めての告白のはずなのに、香子と淳からは平然と見える様子で続ける。
「夢って、イメージでしょう。だから追体験するように、そうね、映画の再生みたいに感じるのでなければ、受け取るのは一瞬で済むの。私の見る夢は、正夢なら現在でも過去でも未来でも、色はその人の目が見たまま、音もその人が聞いたまま聞こえるの。温度や触った感じも感じることがあるわ。正夢以外の夢は、その中のいくつかがかける。白黒だったり、音がなかったり、いくつか重なってかけるのだったり。だから、簡単に正夢とそうでない夢が区別がつくの」
建物を中心に見る香子には、非現実過ぎてどういうことか、すぐにはわからなかった。でも、現実にはいない人間と会話をする淳は、それがとても恐ろしいことだと気づいた。
「それは、全部の人の、一生分の記憶を見ることがあるということですか。それは、何人くらい、何年分ぐらい…」
喜久子は微笑んだまま言った。
「一生分の記憶を見た人は45人、それ以外の断片的な記憶だけ見た人だと300人くらい。ほんの一こま見えただけの人もいるし、香子ちゃんたちみたいにいくつかの場面だけ見えた人もいるしね。全部合わせると、そうね、500年分くらいじゃないかしら」
香子は、恐ろしくなって両耳をふさいで身を伏せた。でも、それで音が、喜久子の声が聞こえなくなるわけもなかった。ひざでにじり寄ってきた喜久子が香子の背をなでる。
「ねえ、香子ちゃん、私はこういう風に生まれたの。私にとっては、そんなに怖いことじゃないのよ。子供のころはうまく舵を取れなかったからうまくいかないこともたくさんあったけれど、おじいちゃんと結婚したころからだんだんうまくいくようになったの。おじいちゃんとは、すぐに別れなくちゃいけないことは、出会ったころからわかっていたけれど、おじいちゃんがとてもまじめに生きてきた人だとわかったから結婚できたし、幸せだったと思うわ。だから大丈夫。そのことは、忘れないでね」
淳は、ぼんやりと二人を見ていた。香子と同じ恐怖に襲われてもいた。でも、初めてしたという告白が、自分たちになされたということの意味も、考えなくてはと思えた。