それは10月にはいってすぐのことだった。

俺と香子はいつもどおり俺の陸上部の練習が終わるのを待って一緒に帰ろうとしていた。香子は俺を待って図書室で宿題と翌日の予習をしていた。俺が練習が終わってズボンだけ替え、Tシャツのまま図書室へ香子に声をかけに行った。

「香子偉いな、俺、授業の予習なんてほとんどしないよ」

香子は困ったような顔で笑った。

「私、勉強しないでいい成績取れるほど頭よくないもん」

こういうとき、香子は自分が勉強していることを隠さないし、自分が成績がいいことを否定しない。俺は、あまりというか、勉強の成績は中の中だから、香子の成績がいいことはすごくうらやましいし、いいことだと思う。

「ほら、淳がトラックの練習するのとおんなじよ、練習のほうがよっぽど大変」

香子は細い声で笑う。

「俺としては香子が予習していることのほうがすごいと思うね」

「でも淳のほうが記録って言う形が残るわ。一度でいいから淳みたいに走ってみたい。あの体育科の先生連中が私のことをものすごく馬鹿にするの、仕方ないけど、ほんとは悔しい」

確かにウチの中学の体育教師たちは運動ができる子を必要以上にひいきする。

「俺は香子みたいな成績がとってみたい。親なんか、おどろくぞお」

ははは、と香子は屈託なく笑う。

「じゃあ一緒に勉強しよ」

俺は無理!と表情で示した。俺と香子では勉強量が違う。

他愛なく、お互いがお互いに相手の好もしいところだと思っているところをからかいあいながら教室に戻り、香子の荷物をまとめた。教室にはもうほとんど残っている連中はいなくて、そいつらも荷物をまとめ終わるころには帰ってしまった。俺は丁度いいからシャツを着る前にTシャツを着替えてしまおうと思った。部活後の更衣室は混んでいるから2年生の身ではジャージをズボンに代え、靴下をトレーニング用のクッションの入ったものから普通のものにはきかえるくらいしかできない。Tシャツを脱いでシャツを着ればいいのだろうが、香子と帰るのだから素肌にシャツというのはなんとなく気恥ずかしい。だから、仕方がないなら上半身はグランドで顔と腕をざっと水で流しただけであきらめるが、教室に誰もいないなら着替えたい。いや、正直言うと、汗臭くないかなって心配なんだ。自分ではわかんないし。

香子が外で見張りをしてくれている間に俺は急いでTシャツを脱ぎ、持ってきていたタンクトップを着る。

「律儀ねえ」

香子はあきれたようにいう。でも、俺が中に何も着ないでシャツを着ていると、香子が俺の上半身を見ないようにしている気がするのだ。

「律儀だろう」

あわただしくジャージと同じ袋にTシャツを突っ込み、教室から出た。

「おまたせ!」

外に出ると、香子はカバンを持ち直してにっこりと笑った

みるということ ⅵ


そして、淳が死者たちに会う。

二学期に入り、俺と香子が付き合いだしたことはクラスの連中には何の疑問もなく受け入れられた。あんまり抵抗も反応もないので不安になったくらいだ。

ただ、加藤に聞くと、あんまりにも当然に思えたのだという。二人の雰囲気があっていたので、つきあっているのに隠しているのかと思ってたら、公然と付き合いだしたのでみんな納得しているんだよ、といった。

俺は、いいなと思う女子がいても、いままでは女子と付き合うなんて考えても見なかったし、今も付き合っているというと自分でも他人事のように思える。付き合いだして変わったことも、呼び方が川島さん、から香子になったくらいだし、実は手をつなぐのも、あの大会の夜以来一度もない。香子もまだ、淳、と水沢、が混ざる。

香子といると、何もあせることはないと思えるからかもしれない。俺も香子も、自分をきちんとして相手を思いやってさえいれば、何も怖いことなどないとわかっているからかもしれない。

俺と香子は前よりもずっと長く一緒にいるようになった。帰りは毎日香子と帰るようになった。でも、依存しあうのはいやだから、と、それ以外の学校内でのグループや授業の移動などでは今までどおりそれぞれの友達と一緒にいた。それに、別に一緒にいなくても不安じゃなかった。二人で話し合って、付き合いだしても急がないようにしよう、ということにした。テレビドラマで中学生が妊娠してしまう話があったけれど、そういうことはもっと大人になるまでとっておこう。いつかしたくなったらそのときに相談しよう。俺たちは、何もあせっていない。

俺には、香子といれば大丈夫だ、という自信があった。香子にも自信があると思う。二人ともが自信を持っていたから、だからこそ怖くなかった。

香子はホームの中央辺りにあったベンチに座った。淳は香子の後をついていって同じように香子の隣に座った。

しばらく黙っていた。

「電車、次、20分も待つよ」

「そうだね」

また黙っていた。今度は香子が口火を切った。

「水沢君みたいな考え方をするようになりたいんだ」

「え」

「正しいことを選んでいけるように。誰かに怒られるからとか、お金が稼げるからとか、そういうことに左右されないでやっていきたいんだ。あの人たちは、あの人たちで正しいと思う。でも、私は水沢君みたいにしたい」

「…ほめられたんだよな、俺。…えっと、ありがとう」

「ほめたの。あのね、私ね、水沢君のそういうところが、好きなんだ」

「え!?あ、それってさ、あの、そういうところ以外はどうなの?」

「…そういう、私に先に言わせようとするところは、や、かな」

淳は、言い訳をするようにへらりと笑った。

「だってこわかったんだぞ?…俺、お前のことが好きだ。きっかけは、もちろんこの目のことだけれど、同じように見えるやつがいたのが嬉しかったんだけれど、でも、こういう風に話して、かわいくて、俺を見てくれるのが嬉しくて」

勢いで告白して、しどろもどろに話し続ける。そして、香子が自分を見ているのに気づいて言葉を切る。あの目で、時間を越えた世界を見ている目で俺を見ている。香子は、淳が気づいたことに気づいて、気恥ずかしくて目をそらした。淳も、落ち着かなくて意味もなく立ち上がる。上を見ると、十三夜の月が雲もない空に浮かんでいる。足元には、月光でできたくっきりとした自分の影が落ちている。香子は、月を見上げている淳の陸上部の白に近いグレーのジャージが月の光を反射しているのを見ていた。きれいだな、と思った。そして、電車の来るほうを見た。淳はふと目をおろした。マリンブルーのキャミに白い薄いカーディガンを羽織った香子の肩が見えた。線路からホームへ吹き上げる夜風が髪を揺らしている。きれいだな、と思った。

そのとき、電車のヘッドライトが二人を照らした。香子も立ち上がって淳の隣に立った。どちらからともなく手をつないで、電車がホームに止まるのを待った。

二人とも家に帰り着いたのは9時過ぎで、当然親にしかられた。

でも、二人とも幸せだった。

その日から、二人の関係が変わったのだ。