毎日がなんだか面白くない。
どうにもうだつが上がらない。
なんだかモヤモヤするけれど原因がわからない。
こういった時に人が取る行動の代表例に、「他者のことに口出しする」ということがあります。いらぬお世話を焼くのはまだいい方だとしても、いない所で悪口を言ったり嘲笑したりして、自分の人生がうまくいっていないことによるストレスの発散や、憂さ晴らしを図ろうとするのです。
しかしそのことによって得られるものは無く、もしも「楽しさ」を感じたとしてもそれは“仮そめの快”であり、自分に本当に喜びをもたらしてくれるものではありません。こういった形でポジティブな感情を感じようとしても「満足度」は低く、自尊心も高まらないままでしょう。
ではどうしたらいいのかと言うと、大まかに言うと、やはり「自分にとって本当にやりたいことや嬉しいことをする」ということになります。
前回のブログ(『自分の小さな望みをかなえましょう』→こちら)で「絵を描くことへの恐怖」という言葉を使い、それを手放した方法についてはまだお話していないのですが、世の中にはわたしのように、好きなことをすることに対して何らかのブレーキやブロックがかかっている人がおられます。中には、まるで自分のしたいことをすることから逃げるかのような行動を取ってしまうような場合もあります。
「自分にとって本当にやりたいことや嬉しいこと」をしないままでは、自分らしいじんわりとした幸福をかみしめたり、ありがたいなあ、嬉しいなあというしみじみとした喜びを実感する人生からはほど遠いものとなってしまう可能性が高い、と言わざるを得ません。
ですが、それは「失敗」であるとは言い切れません。自分らしい幸福を実感できないという理由から、故に不幸であると言う言い方も出来るかもしれませんが、しかし苦しい生き方であることを自覚しやすいために、抜け出すことも意識しやすいのです。
もしも自分にとって本当にやりたいことや、魂と一致した嬉しいことを行っていないのに、他者から賞賛を受けたり、大金を稼ぐといったことができてしまったりすると、そこから抜け出すのはなかなか厳しいのです。不可能ではありませんが狭き門となります。何故ならわたしたちは「本質ではないもの」とわかったとしても、その違和感を無視したりしてしまい、「まやかし」から得る喜び(仮そめの快)やメリットを捨てることがなかなかできないからです。
とは言え、全員ではないのですが、例え“仮そめの快”であったとしても、ある段階においては必要な人もいるのです。
それは「それまでの人生においてあまりにも“快”そのものを感じたことがない」といった場合です。
ただしそれはできるだけ速やかに卒業することが望ましいのです。ここを入口として“仮そめの快”から“自分にとっての真の快”を知ってたどりついていくのですが、それにはやはり「誠実な自己チェック」が必要となります。そのための羅針盤は「違和感」です。
違和感を大切にしましょう。違和感が「本当の自分とのずれ」といったような何かを教えてくれています。
「自分の感覚を疑う」と言うと語弊(ごへい)があるかもしれませんが、「今自分が感じている喜び、楽しさといったものは、健康な精神状態から来たものなのか?心からの喜びなのか、それとも思考からの喜びなのか?」といったことを自分に問うきっかけとするのです。
これには他者という反射板からの反応を見たり、「現実がうまくいくのかどうか」という反映を見たりと、色々な角度から検証をする必要がある時があります。もしかしたら信念体系に自分らしくない思い込みがあるかもしれません。自分に対して嘘やごまかしのない、精密な自己チェックを行います。このようにして自分自身の今の状態を知っていく方法もあるということです。「自分らしく在ることを阻む何か」といったことに気が付いた時の「あっ!」という経験はとても貴重なものであり、それをいくつも積み重ねていくのです。
手間をかけ、ひとつひとつ丁寧に行うことで、魂の目的と一致した本物の自分の“快”の感覚に少しずつ近づいていくことができます。
自分にとって本当に大切なことを、そのまままっすぐに行動に移すということができるようになった「転悪成善」(悪とは仏教において「苦しみ」という意味です)の心境は、苦しみが長く、大きかった人にとってはコントラストの強い喜びです。
こういった心境になった時にはすでに『マイ・ワールド』の世界の住民であるとも言えるでしょう。
『マイ・ワールド』にいる時というのは、他者についてあれこれと口出しをしたり、詮索したり、悪口を言ったり嘲笑したりしようという気すら起きないのです。自分の魂からの「本当にやりたいこと」に集中しているからです。
自分にとって「大切なことを、大切にする」という、まやかしのないまっすぐな行動の喜びをシェアできたらと思い、今回お伝えしてみました。
ではまた・・・。