~交流区間に立つ、田園地帯の先に在る駅~
藤代駅 1896年12月25日開業
藤代駅より北の常磐線は交流電化区間なので、交流電気にも対応したE531系と特急列車、分かりやすく言えば青い電車と特急しか発着しないエリアとなります。
常磐線快速も取手駅までは「JJ」のナンバリングが付帯していましたが、ここ藤代駅以北は駅番号が付けられていません。
JR東日本のナンバリングは2021年に開催された東京オリンピックの開催による外国人利用客の増加を先見して、各主要路線(山手線や京浜東北線、中央線や東海道線など)に付けられました。
JY(JR-Yamanote)という風にJRの「J」と各路線のローマ字表記のイニシャルを路線の記号にする形で作られ、常磐線は「JJ(JR-Joban)」という路線記号が制定されました。
上野駅を起点に常磐線のナンバリングは付けられましたが、肝心の番号付けは交直流の境界である取手駅(JJ10)までしか進んでおらず、藤代以北は未だにナンバリングが付与されていません。
常磐線の路線記号色も交直流対応のE531系の帯色ではなく、直流対応のE231系のエメラルドグリーンです。
また、この他にも
・茨城県以北の常磐線の外国人利用需要が低い
・常磐線の駅数が非常に多く、仙台までやろうというのならJJ78という大きな数字になってしまう。
という課題があるので実現に至っていないのでしょう。
本筋である駅の解説から逸れましたので、線路を戻します。
ここ藤代駅等では、近年の駅のホーム上から撤去されつつあるものが存在します。
それは現在時刻が一目で分かる電子時計で、それもSEIKO製の時計が古レールを再利用した柱に掛けられています。この時計は常磐線の他の駅にも設置されているので時間のある方はこの時計を探してみてください。
改札を抜けると…
今でこそ藤代駅は取手市にありますが、かつて当駅が在していた旧藤代町の特色を描いた壁画が展示されており、1987年3月24日にこの絵は贈呈されました。
「自然に恵まれ都心に近い藤代町。町の歴史は古く、平安期の英雄、平将門とのゆかりも深い。徳川期、寛永年間(1620年頃)からこの地の開発が進み、陸前浜街道に沿う宿駅として栄えた藤代駅は、明治26年(1898年)常磐線開通以来発展をつづけ今日に至っている。
日日、名筑波山に接し、冬日、快晴の日にはるか富士山を望む、美しいこの町に住む人々の幸せを水神様に祈ってこの壁画を作成した。」
手前の砂時計のような形状のオブジェクトも藤代町賛美の為か、置かれています。
大型観光地に限らず、地元賛美のこういったアーティファクトは積極的に置かれるべきだと私は思います。
駅舎はこちら。駅のすぐ近くに石造りと思われる不動産の建屋があります。
それでは次の駅へ
~牛久沼に寄り添いては"佐貫"からの雲蒸龍変~
龍ヶ崎市駅 1900年8月14日開業
ご存知の通りこの駅の前名は「佐貫」駅でした。
しかしこの駅は関東鉄道竜ヶ崎線(佐貫駅開業当時は竜崎鉄道)が佐貫~竜ヶ崎間で開通すると同時に、「佐貫」駅として開業しました。
しかし、駅の所在地は"龍ヶ崎町(1954年に龍ヶ崎市に市制施行)"と"駅名と所在地の食い違い"が起きていました。
さらには"佐貫"という駅名が災いし、内房線に存在する、マザー牧場の最寄り駅として有名な"佐貫町"駅と勘違いしてこの「佐貫」駅で下車する方もいました。駅サイドも「ご注意!当駅はマザー牧場の最寄り駅ではありません!」と駅名が改称されるまで至極わかりやすい注意喚起を行っていました。
当駅を有する龍ヶ崎市自体も2017年からJR線の駅名を市名と同じ「龍ケ崎市」に変更する事を考えていましたが、駅名の改名にも費用がかかる上、消費税増税の延期等諸問題が降りかかり、結果的に駅名を「龍ヶ崎市」に変更出来たのはコロナ禍の最中の2020年3月14日になりました。
駅構内のコンコースを通ると、駅名改称記念の五千羽鶴によるアートの額縁が。
当駅は取手以北の常磐線の駅ではそこそこの規模の拠点駅で、先述の藤代駅や牛久駅、ひたち野うしく駅を管理している中ボス級の駅です。
発車メロディもご当地仕様の曲が3曲「RYUとぴあ音頭」「かえるの合唱」「白鳥の湖」と発車ベルのハッピーセットです。
龍ケ崎駅、東口の駅舎。関東鉄道竜ヶ崎線という短絡線に乗り換える事ができ、乗り換え駅の方の名は"佐貫"なので統一されていません。
どこかの心無いAI「関東鉄道の方も"龍ケ崎市"駅にすればわかりやすいのに……」
と言いたくなるところですが、終点側の駅名は先程も話した通り「竜ヶ崎」と漢字の表記と「市」があるか無いかの差なので改名したら、同じような駅名が近くに2つ存在する事になるので更にややこしくなります。
オフチョベットしたテフ(関東鉄道の佐貫駅を)をマブガッドしてリットにする(龍ケ崎市駅に改名する)ぐらい混乱するでしょう。
龍ヶ崎市駅周辺を遊歩していたら空腹になってきたので、常磐線ホームからも見える日高屋で早めの昼ごはんにしましょう。
中華そばという名のラーメンを味わった後は駅の反対側(西口)へ
西口はよくある橋上駅舎です。この駅にもSEIKO製の時計はありました。では次の駅!!
~鰻丼発祥、葡萄酒を齎した常陸国のディオニュソス~
牛久駅 1896年12月25日開業
察しの良い方なら気づいたと思いますが、駅名標が茨城DC(デスティネーションキャンペーン)仕様になっており、牛久駅以外にもいくつかの常磐線の駅が「体験王国いばらき」というキャンペーン(現在イベントは終了済み)の一環でこのような装飾が行われています。
当駅もご当地発車メロディの使用駅で、1番線の「グリーングリーン」は緑溢れる牛久沼を、2番線の「オー・シャンゼリゼ」はワイン醸造所・牛久シャトー→(不)絶賛五輪開催中のフランス・パリをイメージした連想ゲームで採用されました。
大腸菌が道頓堀の4倍あるセーヌ川でトライアスロンをやったりトランスジェンダーが罷り通る世紀末な大会ですけど大丈夫じゃないかこれは
ホーム上の階段を上がり、窓を見やるとE657系に限りなく近い趣旨のキャラクターイラストが描かれた橋上駅舎を見る事が出来ます。
今回の駅巡りは2駅先の駅までと予め決めており、時間にも余裕があったので東口から関鉄バスで牛久(浄苑)大仏へ
デカァァァァァいッ!!説明は不要!!
シン・ゴジラにも勝る高さ120mの威容を誇り、眼下に浮かぶ群生海の絶景は仏教に於ける浄土の様を上手く表現しており、その様はまさに現世の極楽浄土とも言える美景です。
通常の仏像は鎌倉時代等に建立されたりと長い歴史を有するものが多いのですが、この牛久大仏は先述の通り高さが120mとあまりにも高く、このような高さの仏像を建てる技術が昔には無かったので、仏像としての歴史の始まりは1993年と平成の時代になります。
近年はインバウンドにより様々な観光地に外国人観光客が押し寄せていますが、東京や神奈川県の鎌倉や箱根、京都等国際的に有名な観光地に人が殺到し、観光地の近くに居を構える人がまともに生活出来ない実害……オーバーツーリズム(観光公害)が発生して社会問題になっています。
外国人観光客が北関東の観光地に行く等分散化してくれれば良いのですが……ユニバース25(楽園実験)で人間(マウス)は群れを作りたがり、一つの場所に集まる習性が証明されたので難しそうです。
牛久駅から、牛久大仏の最寄り停留所である牛久浄苑行きの関鉄バスは土休日で8往復の便が出ていますが、平日はたったの3往復なのでそこはもう少し増便して、現在進行形で増加している外国人にも対応できるようにしましょうよ関鉄バス様……
訪問した4月は記憶にも新しい台湾花蓮地震が発生したばかりで、発生から4ヶ月が経過した現在では崩れる危険性の高い建物の撤去がほとんど終わりました。
9年前の夏に台湾に行った事がある私はせめての恩返しとして支援金を投じました。
日本よりお悔やみ申し上げます。
あくまでも本題は常磐線の駅巡り。SEVENTEENアイスの自販機で買ったオレンジシャーベットを味わいつつ帰りのバスで再び牛久駅へ
東口の線路際には牛久駅の創設に関する怪文書旧町長の手記が黒御影石の碑に刻まれていました。
つくば科学万博は後ほどの駅で説明しますが、要するに科学技術の万国博覧会です。
西口側の駅舎、屋根色は葡萄酒を彷彿とさせる赤紫色になっております。
紫系統の色を使う駅舎は希少なので紫駅舎は流行らせろ!!
そんなこんなにで牛久駅を後にします。気づけばもう15時前に。大仏観光に時間を費やしてしまったのが痛いです。
~未来を切り拓いた、科学万博の希望の跡~
ひたち野うしく駅 1998年3月14日開業
常磐線の中ではJヴィレッジ(福島県・2019年開業)駅に次ぐ新しい駅で、茨城県内だと最新の駅となります。駅名の由来は茨城県の旧国名である"常陸"を平仮名にした「ひたち」と当駅の所在地名の「野」、広域地名の「牛久」を平仮名にした「うしく」の合成名です。
こうして見ると「さいたま市」を彷彿とさせるようなキラキラ駅名にも見えます。
何故この駅が近年になって設置されたのかと言うと、牛久市と住宅都市整備公団が「万博中央駅(今のひたち野うしく駅が出来る前に存在した、科学万博来訪者のための臨時駅)の跡地に作ってください!何でもしますから!」とJR東日本にお願いした、請願駅です。
ひたち野うしく駅を語るには、先程説明した「万博中央駅」とはどんな駅だったのか、つくば万博はどんな万博ものだったのかを語る必要があります。
まず、つくば万博は1978年に科学技術庁がエネルギー、資源問題を中心とした科学技術博覧会構想を立案して、1981年1月につくば万博のテーマや基本構想がまとまって4月22日に開催決定、1985年3月17日から同年9月16日までの半年間に開催された国際科学技術博覧会です。
「人間・居住・環境と科学技術」をテーマ(博覧会統一主題)に日本を含む48ヶ国と、国連をはじめとした37の国際機関が参加し、2033万4727人もの総来場者数を記録しました。
万博史上類を見ない数の来場者の足となったのが「万博中央駅」という、駅名の通り万博会場にアクセスする為だけに設けられた臨時駅で、数多の臨時快速列車「エキスポライナー」が発着していました。
それだけ多くの客を捌くにはキャパオーバーしない為にも当然、名古屋駅や京都駅(1985年当時)と同等の規模が必要で、一日の最大で20万人の乗降客に対応出来るように設計されたコンクリ盛々の巨大な駅でした。
万博中央駅は万博開催前3日から閉幕日の9月16日まで開設されました。元々万博が終わった後に取り壊される前提で作られたSDGsな駅の享年……営業日数は186日でした。それ享年じゃないだろ
万博が終わり、万博中央駅の開設・廃止から13年後の同じ場所に今のひたち野うしく駅が新たに設けられたのです。
要は「科学万博のために働いた万博中央駅は、転生したらひたち野うしく駅だった」という訳です。
駅前はつくばエクスプレスに客を取られたせいか静かな住宅街が広がっています。
科学技術博覧会の歴史跡である当駅は「安全、環境を考慮した21世紀に相応しいゆとりある駅」という理由で関東の駅百選にも認定されています。
次の駅へ行く為の列車を待っていたらE657系のフレッシュひたち復刻塗装・スカーレットブロッサムK12編成と遭遇しました。この駅にもSEIKO製の時計はありました。それでは最後の訪問駅へ……
~閑静に潜める、天を往く兵どもの基地へのとば口~
荒川沖駅 1896年12月25日開業
ここから2駅先の神立駅までが土浦市に存在する駅で、駅のすぐ東には阿見町が広がっています。
また、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地への最寄り駅でもあるため、時々自衛隊の方が当駅を利用します。
さて、「荒川沖」という初見の人には支離滅裂に見える地名ですが、噛み砕いて説明すると
茨城県での「荒川」は「霞ヶ浦に注ぐ新しい河川(乙戸川)」という意味で、名前の通り氾濫を起こしやすい川の意も含まれています。意味合いでは埼玉から東京を流れる荒川に似ています。
…何故「荒川」に「沖」という文字がドッキングされているのかと言うと「沖」は「広々とした田園地帯」という解釈もあり、当駅周辺は先述の特徴が当てはまる土地柄だからです。
……「荒れる川の奥」という言葉が変性して出来た地名、それが「荒川沖」です。
解釈って凄いよね。無限の可能性に行き着けるから!
発車メロディは1番線が「きらきら星変奏曲」、2番線が土浦市イメージ曲「風の贈り物」で、土浦駅や神立駅と同じパターンで使われています。
西口。すごく白い。典型的な橋上駅舎ですが元は地上駅で、水戸支社の駅では最初に橋上化されました。階段のすぐ横にはJR発足当時のものと思われる案内板があり、駅長室があった所は現在、自販機置き場になっています。
東口に繋がる階段、廃墟好きには堪らない構造となっており、古いエレベーターも設置されています。
荒川沖駅東口、戦前には荒川沖競馬場もありましたが1938年に「軍馬資源保護法」が施行され廃止になりました。
JRA美浦トレーニングセンター(トレセン)から直線距離で一番近い駅ですが、当駅からトレセン直行のバス便は出ておらず、土浦駅から美浦トレセン行きのバスがあるのでそちらを利用しましょう。
ロータリーの植え込みには「常磐線全列車を東京駅・品川駅へ」、下には「そして東海道線との相互直通運転を実現させ、横浜方面へ」と書かれた看板が立っています。
前者は完全なる実現には至っていないものの2015年3月14日の上野東京ライン開通で品川行き列車が多数登場したので、願望は叶ったと言えるでしょう。
後者は今のところ臨時特急でしか形になっておらず、「海浜公園コキア平塚号」「水戸偕楽園平塚号」等停車駅が極端に少ない列車(横浜の次は水戸に停車する、新幹線も青ざめるレベル)なので茨城県南部の望みは夢のままです。