結論から言いますと、裁判や事実確認が重要な場面もありますが、日常の対話においては、被害を受けたという側のかたが嘘をついているのかどうかは「どちらでも問題はない」と個人的には思っています。大切なことは、今、その記憶をお話している方が「何を感じているのか?」なのではないでしょうか。

 
 この結論に至った理由で思い出したものを以下にいくつか挙げてみます。


①わたしが虐待被害を訴えても一定数の割合で「嘘だ」と決めつけてかかる人が存在したから。
②身に覚えのない訴えにより人生が崩壊したという人の話から。
③ある子どもさんが親にわかってもらいたくてつい話を大げさに述べた時、親御さんが容赦(ようしゃ)なく叱責(しっせき)するという現場を目撃したから。
➃私の周囲に無自覚に嘘をつく癖を持っているかたがおり、そのかたの状態などから。


 こういった経験から、わたしは、目の前にいる人物が何らかの被害や心の苦しみを訴えている場合、嘘かどうか自体は、どちらでもいいと思うようになりました。大切なことは真偽(しんぎ)を問うことではなく、まず「その人が今、何を感じているのか?」をつかむことなのではないかと考え、実践しています。


 こちらとしてはいつもお伝えしている「自分らしい幸福のための全貌図」の最上段や、少なくとも『マイ・ワールド』からの逆算を行い、そのかたが精神的に浮上する方向が見えているため、目の前の事象にはいちいちとらわれることはありません。

 


 ただ会話を重ねることにより、嘘をつくことなどによって、何らかのメリットを享受できるパターンが形成されていたりして“仮そめの快”にどっぷりと浸っていることがはっきりした場合においては、必要に応じて現実的なフィードバックを行うこともあります。


◆ “仮そめの快”とは何か

 “仮そめの快”とはわたしの造語で、本来の自分らしくない、真実の喜びからズレたことに“快”、喜び、嬉しさ、楽しさを感じることです。オーセンティック(Authentic)ではない、フェイク(Fake)の喜びのことを言います。具体的に言うと短期的な報酬に偏った快のことでもあります。


 繰り返しお伝えしている『マイ・ワールド』の在り方を恒常的(こうじょうてき)なものにするためには、真実の自分自身の純度を限りなく高めていく必要があります。“仮そめの快”のような、フェイクのハピネスでは、自分にとっての『マイ・ワールド』にたどりつくことはできないのです。


  そもそも、人はそれぞれに、様々な理由で嘘をつくことがあります。嘘とまではいかなくとも、自分の立場を有利なものに持っていこうとして「話を盛る」(大げさに言う)ということは日常的に見られることではないでしょうか。


 これは意識的にも無自覚にも行われているようです。


 そしてもしも相手のかたが、記憶が曖昧(あいまい)であったり、虚偽であるかのようなことを言っていたとしても、ただちに「嘘だ」と断定することは(ひか)えた方がよさそうです。


 なぜなら強いストレス状態では、断片的で強い記憶が“再構成されるからです。


◆ 記憶の再構成


 近年の研究によると、記憶とは固定されたものが再生されているのではなく、思い出す度に、その時の心身の状態によって再構成(Reconstruction:リコンストラクション)されていると言われています。そして、その再構成された内容が再び記憶として脳に刻まれる現象は、脳科学や心理学において「再固定化(Reconsolidation:リコンソリデーション)」と呼ばれています。


 どうしても話す時の心身の状態に依存しますので、時系列や細部が曖昧になったり、誇張や欠落が起きたりする場合があるのです。これは脳の仕組みとして自然なことなのです。


 しかし、「恐かった。悲しかった。苦しかった。くやしかった。」そういった感情体験は、本物の体験です。


 ですので、先述のように、そのかたがつらいからそのように言っているのであって、嘘をついていようが、おおげさに話ししていようが、いまいが、どちらでも問題はなく、大切なことは、まずはお相手の状態を知るために耳を傾けて聞くことではないかと思います。


そして以下のこともお伝えして今回の話を終えたいと思います。


◎自分と相手の境界さえ守れていれば相手が嘘を言っていようが問題ではない。
◎自分と相手の「幸福」及び「幸福からの逆算」という視点を持つとこちらはブレることはない。


 ここでいつもお伝えしていることに行きつくのです。


正しさよりも、優しさを。そして楽しさを。


これは基本的な在り方と視点のご提案の一つなのです。


 それでは、また・・・。



(当ブログ「重ための話」も別ブログ「古今東西」も不定期更新)