同窓会 | 寝袋ぶらぶら西日本

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やって来ました久しぶりの道頓堀。
思えばハタチ過ぎ、飲んでは終電を逃し、
朝まで家に歩いて帰ったスタート地点である。


まだ灯らないネオン看板は
昼間に眺めると何やら寂しく、あの道頓堀とは思えない。




さて昨日は、ぼくにとって初めて出席の小学校の同窓会。


中学校の同窓会が1年半前に開かれ、
また中学の連中とは時折飲んでいるので、
同級生に再会するというインパクトはあまり強くなかったのだが、
うれしかったのは担任の先生に会えたこと。
ぼく達の学年は珍しく4・5・6年とクラス替えがなく、
また後ろ2年は担任が同じだった。




率直なところ、担任の先生は、もうこの世に居ないのでは、
と思っていたが、実にお元気で、
また当時のことを細かいところまで、
よく覚えておられたことだ。


ぼくの記憶に残る出来事はもちろん、
大人になった今だから判るその背景まで話していただいた。


この先生と出会えたことで、
今、ぼくが仕事をしている業界に進めたとも思っている。
そのことを先生に御礼申し上げると
先生は喜んでくださった。


しかし当時の先生の授業は、教育委員会も真っ青の型破りなもの。
学習指導要領からは遙かに逸脱した内容だった。


仮説実験授業をクラスに実地導入したのも、この先生で、
算数の時間に既に中学の連立方程式を学ばせ、
6年では卒業論文を意識されてか
数ヶ月間での自己課題によるレポートを課された。
その他、英語の音楽、紙グライダーを作る授業、
終戦直後さながらの「民主的」日本国憲法の授業、
実に豊かな授業内容が懐かしく思い出される。


が、皆がそれらのユニークな内容に賛同していた訳ではない。
ついていけなかった旧友からは
今でも不平は聞くし、PTAからの反発も強かったと
昨日は先生から聞いた。


残念ながら、もう現代の日本では、
こういう授業を行うことも、受けることもできないだろう。
われわれ1960年代半ば生まれ、時には、
世代としての没個性さを揶揄されたこともあったが、
さて今、個性化を声高に叫ばれているほどに
子供達を豊かに育てられる教育の現場があるのだろうか。


そういうことを思うと、
この先生の取り組みが、とても貴重に思えるのだった。




さて、出身地と現在の住まいが遠くなり、
酔うと帰路が辛くなり、さすがに歩ける距離でないので、
会は1次会だけで早々に引き上げるつもりだったが、
想像はしていたものの、2次会、プチ3次会へと
さんざん飲んできた。


電車では寝てしまい、ターミナルを折り返した時点で気付いた。
ウチは折り返しから数駅なので、助かったが、
既にその列車は最終便だったのだ。


「道頓堀 しでかすことは 今も昔も変わらない」