とくべつ | 愛をうたう

愛をうたう

ショウジョウハイライト明香のアタマ





「松本さんっておる?」


そう言って教室の入り口のところに学ランの男子がいた。

私たち10期生から男子がブレザーになったから

学ランを着ているってことは上級生。

なに?なんや?

と思いながら、何の用か尋ねると


「みぃ(生徒会の先輩)から聞いたんやけど

ドラムやっとるんやろ?

うちのバンド、ドラムおらんのやけど一回スタジオ入らんけ?」

なんかちょっとぶっきらぼうにそう言ってきた

ひとつ年上の先輩がキヨシ。


そのあとすぐスタジオに入って

女のドラムなんて!と反対していたナオキからもOKが出て

ボーカルのジュンジさん(高2)

ギターのナオキ(高1)

ギターのキヨシ(高2)

ベースのタック(高2)

にドラムのハルカ(高1)が加わった。


ビジュアル系、ジュディマリ、イエモン

ハイスタ、グリーンデイ、ランシド、ブルーハーツ

色んなコピーバンドがいたけれど

うちのバンドは流行りとは無縁で

レイラ

スターマン

メッセージインアボトル

ホテルカリフォルニア

などがライブの定番曲だった。


でもそういう独自の感じ含めて、誇らしくて好きだったし

なんとなく一目置かれている感じもあって

他のバンドが企画するイベントにも呼ばれて

よくライブをしていた。


ドラム人口が少ないので

多い時には8バンドほどのサポートドラムをしていた。

私は高2の途中で高校をやめたけれど

その後もキヨシとのバンドはメインで続けた。

やがてひとつ上のメンバー達がそれぞれ進路を決めて

バラバラになることが決まった。

大好きなバンドだったからずっと続けたかったけど

それを言っても先には道が無いことくらいは分かっていた。


キヨシは沖縄の大学に行った。

私は21歳になるまでスカイメイトを使って

何度も沖縄に遊びに行った。

その頃キヨシがギターボーカルで組んでいたバンドは、オリジナル曲を作って活動していた。

その時に自主制作したCDは今も持っている。


大学卒業後、東京に出たキヨシ。

高円寺の風呂もトイレもない

押入れの中に足を突っ込んで寝る部屋に住んでいた頃のキヨシはガリガリで、絵に描いたような貧乏ミュージシャンだった。


私は24歳で金沢から大阪に出て

散々回り道したのちに

30歳で初めて曲をつくって

ピンボーカルの予定がなぜかギターボーカルになって3ピースバンドが始まった。

弾けないギターで歌をうたっていた頃には

キヨシはもうすっかり界隈では話題の人だった。

ギターボーカルのキヨシと

ドラムとポエトリーリーディングのゲンキくんがメンバーの

リトルキヨシトミニマム!gnk!は2ピース ベースレスバンドとして横浜を中心に活動していた。

とにかくライブも音源も全部ヤバくて

大きなフェスに出たり、いつも面白いことをしていた。

キヨゲンのCDは今でも聞くし、全曲イントロから歌える。


昨年まで続いていた春一番にもキヨシはバンドやソロで

11年ほど出演していた。

今も

リトルキヨシは色んなところに歌いにいく。

リトルキヨシは全国にたくさんのファンがいる。

出逢う前からずっとギターを弾いていて

私が音楽から離れている間もずーっと歌っている。



大切な友達で

尊敬する先輩だけど

みんながキヨシ君いいね!と言うと

すごく嬉しくて誇らしいけど

なんだかちょっと悔しい。

私にとってのとくべつ。


それがキヨシ。


舞鶴に来てからは会っていないし

最後に会った日もはっきり覚えてない。

しばらくライブも見てないけれど

大丈夫。

私のとくべつは裏切らない。


だから

こっちで初めての企画ライブはリトルキヨシとします。


3月

21(土)夜に、京丹後kitchen sanablend

22(日)昼に、大江オーケストラカレー

この2本はショウジョウハイライトと2マンライブ。

22(日)夜は、福知山studioFARM

最後の夜はリトルキヨシがFARMのイベントに出ます。



あの時の私は想像もしてなかった。

30年後にこんな日がやってくるなんて。

教室のドアから繋がっていたこのとくべつな日。


あなたも一緒に過ごしませんか?