泳ぐ人(1968) | あの時の映画日記~黄昏映画館

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あの日、あの時、あの場所で観た映画の感想を
思い入れたっぷりに綴っていきます

 

 泳ぐ人(1968)

 

 

まだまだ猛暑が続き、秋はまだ遠い感じがしますが、日の出の時間が遅くなったり虫の声が変わってきたことに小さな秋を感じるこの頃。

 

そんな過ぎ行く夏を惜しむうよな作品を思い出していたら、本作を思い出しました。

 

ブルジョワたちが集うプール付きの邸宅。

そこに突然、海パン一丁で筋肉粒々のの男、ネッド(バート・ランカスター)が現れる。

 

いきなり現れたネッドに対し歓談者たちは気軽に声をかけ、ネッドも気さくに応えて酒を酌み交わしたりする。

 

そして、突然彼は、

「これから7つのプールを泳いで家に帰る」と言い出す。

自宅までにある豪邸のプールを泳いで家まで帰ろうというのだ。

 

アポなしでかつての知人の家に寄り、そこのプールで泳いで、その家の住人たちと会話を楽しむネッドなのだが、先に進むほど、その知人らの態度がよそよそしく冷たくなっていき・・・

 

未鑑賞の方は、このあらすじを読んでもいまいちピンとこないと思います。

まるでテレビバラエティ「水曜日のダウンタウン」のような設定です。

だけど、観たらわかるんです。

こういう書き方になるのもわかっていただけると思います。

 

本作は究極のナルシスト映画で、鋭い社会風刺を含んだ深い作品なのです。

 

すべてのセリフにすべて意味があり、それがパズルのようになっていて、時間を超越した構成の中で展開しているのです。

 

自分の娘くらいの女性を口説く。

陽光のきらめきの中ハードルを飛び越える。

馬と一緒に走り、自分の若さを満喫する。

しかしプールを渡り歩くうちに、一枚一枚皮をはがされるように自分の醜い姿、醜い内面が見えてくるようになる。

 

『多分、自分は身近な人を踏みつけてのし上がってきた人間なのだ』

 

自分はいつまでも若い。

人生自分の思うようになる。

そう思っている主人公が、

自分の正体がわかってくるうちに、どんどん寒気が襲ってくる。

一気に季節が進んだかのように。

 

前半は頼めばいつでも注いでもらえたマティーニも後半になるにつれて頼んでも誰も彼に酒をやろうとしない。

 

ある邸宅たどり着いたプールには水が張られていない。

その家で一人で留守番する気弱な少年。

少年に明るい未来を説き、泳ぎを教えるネッド。

彼は気づかないが、その少年は過去の自分自身なのだ。

テニスを楽しむ娘、料理を作って待っている妻のもとに、プールを泳ぎ継いで帰ろうとするのだが、その家族がどうなったのかがわかるところは、観なおしてみるとホラー的展開。

ただ、直接的な描写は一切なく、すべてはパズルのピースのようなヒントの積み重ねで描かれます。

 

彼の発行する小切手は紙くずに過ぎず、50セントの入場料がないために市営プールにも入れない。

若いころからのセレブの感覚が、金を無心するにも傲慢にさせる。

 

そして、ラストはキューブリック監督の『シャイニング』に似た静かな衝撃をもって終わります。

 

まばゆいほどの輝きが次第に黄昏ていく過程を主人公の人生にダブらせて描く脚本と演出は抜群に上手いです。

繰り返し観れば観るほど理解が深まる本作。

 

「今をきちんと誠実に生きないと、人生やり直しがきかないよ」というメッセージが重いです。

「泳ぐ人」(The Swimmer)の意味をより深く考察するともっと面白くなります。

 

『泳ぐ人』The Swimmer(1968)

フランク・ペリー監督 96分

1969年9月日本公開