異邦人(1967)
ルキノ・ヴィスコンティ監督が、不条理の哲学を打ち出した・アルベール・カミュの原作小説を独自の解釈をすることなく真正面から映画化しました。
母の訃報を知りアルジェリアのアルジェから母の養老院があるマランゴまでやってきた・ムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)。
母の棺をみても、漠然と悲しいという感情はあるが特段激しい感情もない。
棺の中に収められている母親の顔も見ようとはしない。
翌日アルジェに戻ったマルソーは、海水浴場で元同僚の女性マリ―と再会し、喜劇映画を観て、深い関係となる。
後日、ムルソーは友人のレイモンに誘われマリーと一緒に海岸に出かける。
そこで、レイモンに恨みを持つアラブ人の男たちに襲われる。
その場はなんとか収まったのだが、
レイモンを病院に連れて行った後にムルソーは先程襲われたアラブ人と出会い、手に持っていた拳銃でアラブ人を射殺してしまう。
裁判にかけられたムルソーは死刑を宣告されるのだが・・・
この作品はここまでストーリーを書いても大丈夫でしょう。
観客はここから自分の心にある不条理との対決に突き進むことになるのですから。
カミュの不条理論は、数多くの哲学者たちが論じていて、一介の映画ブロガーである私が入り込む余地などないくらい研究されているわけですが、文字だけでは難解になりそうなこの原作をヴィスコンティ監督は嚙み砕いてみせてくれたように思います。
「父」としての神もその歴史も拒否して否定し続けたカミュ。
クライマックスで司祭と対面する場面で、その意味が明確となるのですが、その演出はまさに正攻法で、結局神も俗物主義だと思わせる力強い描写に圧倒されます。
裁判で殺人の理由を問われたムルソーは、
「太陽がまぶしかったから」という旨の答弁を行います。
一概には理解できない言葉ですが、彼は正しいのです。
独房に入って死刑を待っているときに面会に来た司祭にムルソーは言います。
「何に興味があるかは確信を持てないが、関心がないものはわかっている。例えばあなたの話とか・・・」
そして、絶望しているから投げやりになっているわけでもない、ただ恐れていると。
それを気の毒にと司祭は言うのだが、ムルソーは神の存在も含めすべてを否定します。
壁を見つめて浮かんでくるのは神ではなくて愛した女の顔だと。
懺悔を断り、人生や自分の死、その他あらゆるものに対して確信を持てることだけが真実だと。
そして、
「あなたも俺と同じいつかは死ぬ運命なんだ!」と。
不条理や実存主義など、詳しく勉強していれば更に本作は深く入り込めるのだと思う。
残念ながら私は薄く、浅い知識しか持ち合わせていないため解釈が甘いのかもしれない。
が、表面的には決して難解な映画ではない。
ただ、観終わった後の深さが凄いです。
ヴィスコンティ監督の代名詞ともいわれるドイツ三部作の制作中に不条理に対峙したのも興味深いですね。
私は、ラストのモノローグで語られる星空や風の臭いどこからか聞こえてくる音だけが真実なのかなという理解をしています。
「世界の優しい無関心に初めて心を開いた」
重くて深いラストです。
『異邦人』Lo Straniero(1967)
ルキノ・ヴィスコンティ監督 104分
1968年9月日本公開