フェリーニ8 1/2 シーン主義徹底解説① プロローグ | あの時の映画日記~黄昏映画館

あの時の映画日記~黄昏映画館

あの日、あの時、あの場所で観た映画の感想を
思い入れたっぷりに綴っていきます

公開当時は『難解』という評価が先走り、

それゆえに、評論家を自称する方々には大絶賛されつつも、

一般の観客には「???」がついた人も多かったと聞く。

 

初公開は1963年。

私が初めて観たのはリバイバル公開時の1984年でした、。

 

映画通を気取っていた私は、

鑑賞後、「凄い映画だ」といって、

当時公開されていた新作映画を押しのけて、

年間2位の評価をしていました。

背伸びしていたのでしょうか。

(ちなみに1位はジョージ・ロイ・ヒル監督のガープの世界でした)

 

ですが、実際理解していたのでしょうか。

本当に年間2位を取るだけの作品だったのか、

と、いうことで今回は映画史に燦然と残る傑作(といわれる)8 1/2を私なりの視線で徹底検証してみたいと思います。

難しいことはわかりません。

徹底したシーン主義で語っていこうと思います。

 

まず、この作品のあらすじを簡単に説明すると、

新作の構想に行き詰った映画監督が療養を兼ねて温泉地に湯治にやってくる。

その湯治場で主人公は過去から現在までの様々な人間たちと出会い、

そしてイメージの洪水に溺れていく。

新作映画の映画の脚本を進めるというのが主目的だったのだが、

主人公の内面はますます混沌としていくばかりで・・・

という感じです。

 

プロローグ

酷い交通渋滞の中、

映画監督の主人公グイドは突然車の中に広がってきたガスに苦しみます。

渋滞した車はグイドの構想の行き詰まりを象徴し、

無表情でグイドを見つめる他のドライバーは、

作家の苦悩など全く分からない一般映画ファンの象徴でしょう。

 

苦しみから逃れるためにグイドは、

車から脱出し空中へと逃亡します。

早くもフェリーニイマジネーション劇場開幕っといったところです。

 

不安定に右に左に空中浮遊するグイド。

未完成の映画のセットを俯瞰に見ながら自由へと飛んでいくのですが、

なんと、グイド自身が自らロープで地上に引きずりおろしてしまいます。

それも笑いながら。

司祭も引きずりおろすように命じます。

空想的な心理状態から、

現実に引き戻されるということを視覚的に映画的に表現してしまうこの時点で、

「わあ、やっぱりフェリーニ凄い!」と脱帽してしまうしかないのです。

 

湯治場の病院。

医者や看護師もグイドのことを知っていて、

新作の進捗具合を聞いてくる。

誰からも何度も聞かれる質問にグイドもイライラしているようだ。

 

自然豊かな屋外の湯治場。

富裕層らしき老人たちがそれぞれ癒しを求めてやってきている。

オーケストラで流れているのは、ワーグナーの、

『ワルキュウーレの騎行』だ。

老人たちは飲泉をして至極の表情を浮かべる。

 

この飲泉場に現れるグイド。

美しい女性の幻を見る。

美しい少女クラウディア。

が、すぐに幻は消え、

今一番会いたくない作家のロミエと出会ってしまう。

彼曰く、

今グイドが作っている新作は問題提起が欠如しており、哲学的前提がない単なるエピソードの羅列だと酷評する。

作品の意図がわからないと。

 

ここまで観客として観ている我々の気持ちを代弁してくれているわけだ。

 

ここで登場するのが、

グイドの友人の妻である妖艶な女グロリア。

彼女はグイドに意味深な視線を送ってくる。

 

グイドの混乱は収まらない。

そんな中、

愛人のカルラがグイドのいる湯治場にやってきて・・・

 

と、ここまでがプロローグといったところでしょうか。

フェリーニ監督は映画を観ている我々に舞台に上がるように催促しているように感じます。

泥沼に落ちていこうとするグイドの道連れとなるように。

 

観る者のあらゆる感情を揺さぶってくれる本作ですが、

ここまでは、

“焦燥”という感情をじわりじわりと増幅させてくれます。

 

そして・・・

続きは次回書きます・・・