映画評論家・・・誰でもなれる。
試験があるわけではない
。
評論の対象となっている「映画」は、
最終的には面白いかそうでないか。
でも、面白くない映画を、
躍起になって面白いと叫んでいる輩は、
何と言おう。
年間に1本しか映画を観ない人もいるのだから、
そんな人たちの指針となる評価をすべきだ。
その映画が、
彼、彼女の初デートかもしれない。
評論家の前評判を頼りに、
そういう人は作品を選ぶのだ。
面白くないというのと、
難解というのは意味が違う。
時には脳を絞りながら観る映画も必要なのだ。
そして、難解ではあるが、
こんな見どころがあるというのを、
ネタバレをせずに解説するのが、
映画評論家という仕事。
おそらく配給会社から、
お金をもらっているのであろう。
そういう立場で論じるのであれば、
映画評論家という肩書は捨てて、
映画広報家に転業すべきである。
お金の力に踊らされ、
その話を信じ、
愚作をみせられた観客は、
映画の楽しさを知らずに、
二度と劇場に足を運ばないかもしれない。
先日など、
シネマコミニュケータ^-を自称する輩が、
ジョン・フォードを知らないという。
公の電波に乗せて、
そういうのだ。
ジョン・フォードを知らないで、
どうして現代映画を論じれるのか。
少なくとも評論家を名乗るならば、
映画を解説してほしい。
あらすじネタバレだけなら誰でもできる。
温故知新。
評論家を自称するなら、
心得ていてほしい。
宣伝が悪いことだとは言わない。
宣伝は重要。
淀川長治先生も、
宣伝部出身だった。
ただ、評論家として語る場合には、
その立ち位置をはっきりさせてほしい。
愚作を傑作と語るならば、
その根拠を示してほしい。
それが評論というもの。
共感できるかどうかは別にして、
結局映画は、
好き、嫌いの二つなのはわかっています。
しかし、それは観た後の観客の判断すること。
映画という媒体は、
娯楽というのと併せて、
実に綿密な総合芸術であるということ。
そういうことを踏まえた、
アカデミックで楽しく的確な、
映画評論を聴きたいとねがってなりません。