校歌の広場 -32ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、福井県の敦賀気比中学・高校です。

敦賀市は福井県南西部、いわゆる"嶺南地方"の中心都市です。
日本海の敦賀湾に面し、古代から京と北陸を結ぶ北国街道北陸道(脇往還)の途中にあり、若狭道との結節点でもありました。近世では敦賀港が東京からシベリアを経てモスクワ、欧州を結ぶ"欧亜国際連絡列車"の玄関口の役割を果たしていました。
現代では北陸新幹線が令和5年に敦賀駅まで開業予定ですが、この後の京都~新大阪延伸は大まかなルートが決定したばかりなので当分はここが終着駅となります。

敦賀で有名なのは、気比神宮気比の松原でしょう。
気比の松原は敦賀湾の西半分ほどを占める白砂青松の景勝地で、アカマツが2万本近くも生い茂る様は"日本三大松原"のひとつにふさわしいものです。古くは気比神宮の神苑とされていたそうですが、現在は国有林です。
その気比神宮は古事記には既に見えるように創建はかなり古く、北陸道総鎮守越前国一宮として格式も高く重要視されていました。
見所は日本三大鳥居のひとつとされる朱塗りの大鳥居です。

学校は市街西方の敦賀市総合運動場近くに、昭和61年に開校しました。2年後に付属中学校も開校しています。
嶺南地方では唯一の私学です。といっても嶺南初というわけではなく、かつては同じ敦賀市に昭英高校がありましたが、現在は生徒募集を停止して休校しています。
校歌は作詞:広部英一 作曲:島崎篤子で制定年は開校と同時の昭和61年と思われます。
敦賀気比 (全3番)
 ふるさとの大空に はばたく翼
 われらのいのち たくましい力あり
 この胸に ともしびを燃やし
 わが道を ひとすじに進む
 ああ友よ友よ ここに集い ここに学ぶ
 われらの母校 その名は高く
 敦賀気比高等学校

地名は3番に松原が出てくるくらいでしょうか。現代的な歌詞ですね。

高校野球では、平成時代から台頭してきた福井県の強豪校です。
平成6年夏に甲子園初出場以来、春7回・夏9回出場して計27勝を挙げています。平成27年春は初優勝を果たし、これは北陸地方初の優勝でもありました。
他にも、駅伝部、空手道部、レスリング部などが全国大会に出場しています。
今回は、和歌山県の紀央館高校です。

御坊市は、南北に「し」の形で大きくカーブしている和歌山県のほぼ中央部にある町です。
紀中日高郡の中心部をなし、温暖な気候から林業が発達し日高川によって運搬されてきた木材の集散地、花卉の生産地でもあります。
また、浄土宗本願寺の日高別院、通称"日高御坊"が置かれその"寺内町"として発展してきた歴史的な町並みが残る町です。寺内町は前回の"門前町"とは少し異なり、浄土宗や真宗などの仏教寺院や道場を中心とした自治集落です。土塁や濠をめぐらせて守りを固めているようなところもあります。

前身の御坊商工高校として開校したのは昭和33年ですが、更に源流をたどれば昭和10年創立の御坊商業学校が最初といえるでしょう。
旧制御坊商の校歌は作詞:花田大五郎 作曲:陸軍軍楽隊で制定年は不明です。
旧制・御坊商 (全3番)
 我が大君の 御恵み浴びて
 此処に据ゑたる 礎固し
 産業報国 心を一に
 励まん 我等が御坊商業

その後、昭和19年に商業から工業への転換政策により日高工業学校に改称しました。
この時校歌も変更されたのですが、御坊商時代のものを一部改訂したもののようです。
旧制・日高工 (全2番)
 真妻高嶺の 朝日を浴びて
 共にいそしむ 誓いは固し
 堅忍不抜の 志操を胸に
 励まん 我等が日高工業

昭和23年の学制改革で旧制中学校・高等女学校とともに日高高校に集約されましたが、昭和33年に商業科と機械科が分離独立して御坊商工高校となりました。
校歌は作詞:西川好次郎 作曲:竹中重雄で制定年は不明ですが、独立直後でしょうか。
御坊商工高校 (全3番)
 かがやく朝の 雲もゆる
 白馬の空よ 山なみよ
 ここに希望の 眉あげて
 力と技を 練りみがく
 若き学園 おおわれら
 御坊商工 光あり

平成15年に学科改編で商業系の学科を廃止、普通科を新設して紀央館高校と改称しました。
伊国の中、また校地が小松原の跡地であるからというのが由来だそうです。
校歌は作詞:梅田恵以子 作曲:森川隆之で平成15年制定です。
紀央館高校 (全3番)
 陽に映ゆる 白馬山脈
 日高野の 大地踏み締め
 青春の刻 謳歌する
 それぞれの価値 それぞれの道
 創造は 明日の力
 果敢なる 心養う
 わが母校よ 紀央館

3番「語り継ぐ文化の誉れ、小松原、連歌の極み…」がこの町の歴史を歌っています。
上記のように校名の由来のひとつが小松原館なのですが、ここは鎌倉~戦国時代にかけてこの地方を支配した湯川氏の居城でした。11代当主湯川政春は応仁の乱直後の"六角征伐"に参加する武人だった一方、文化人としても特に連歌を愛好し、連歌師・飯尾宗祇牡丹花肖柏などとの交流を持っていたとあります。
飯尾宗祇は時の後土御門天皇から"花の下"の称号を授けられた最高位の連歌師です。

高校野球では御坊商工時代に春のみ3回の甲子園出場があり、昭和56年春は2勝を挙げてベスト8進出、校歌が流れました。
今回は、石川県の門前高校です。

石川県・能登半島北部に位置する輪島市にある学校です。
門前地区は以前は鳳至郡門前町で、能登半島北西部の日本海に面する町でしたが、平成の大合併で輪島市と合併しました。
"門前町"とはある程度大きな神社や寺院の参道周辺に発達した町を言い、参拝・参詣者や信徒などが集合する流れから商工業者も集まって形成されます。
歴史上では城下町や湊町とともに重要拠点でもあり、有名なところでは善光寺の長野伊勢神宮の宇治山田比叡山の近江坂本などが挙げられるでしょう。

ここの場合は、中世の能登国櫛比庄(現在地)に開創された曹洞宗大本山・總持寺に由来します。
1321年に曹洞宗の瑩山禅師によって諸嶽観音堂から總持寺と改められ、70以上の堂宇や1万以上の末寺を有する能登の大本山・"能山"として栄えてきました。しかし、明治31年の大火によっていくつかの伽藍を除いて全焼してしまい、その復興を模索する際に宗教の意義と将来的な知見によって横浜市鶴見区の現在地に移転したのです。
現在の輪島門前にある寺院は明治38年に再建されたもので"總持寺祖院"と呼ばれ、令和3年で開創700年になるそうです。

学校は昭和23年に輪島高校定時制課程門前分校として開校し、昭和37年に独立して門前高校となりました。
同地区の市立門前中学校と連携中高一貫教育を行っています。ちなみに門前町にはかつて中学校が7校ありましたが、全て統合されて現在は門前中学校1校のみです。
校歌は作詞:諸岡昭円 作曲:安藤芳亮で制定年は不明です。
門前 (全2番)
 あなさやけ 首山のふもと 法燈の里
 ゆたけき瑞枝 ま輝く今
 理想の文化 いや創るべく 誓ひてし
 をのこわれ 乙女われ
 真理と正義 両手にかかげ
 誇りは高し われらが母校

法燈の里」は總持寺門前町として栄えた土地を歌っています。
ゆたけき瑞枝」とは、能登ヒバこと"档(アテ)"のことでしょうか。アテとは石川県の県木で、ヒノキアスナロの方言です。門前町はアテの木の"元祖"があり、周辺もアテの植林があることで取り入れたのではないかと思います。

今回は、兵庫県の市立姫路高校です。

http://www.himeji-hyg.ed.jp/himeji-h/index.cfm/1,html

 

姫路市は兵庫県南西部、播磨地方の中心都市として栄えている町です。

姫路のシンボルともなっている姫路城は、国宝五城現存十二天守のひとつで世界遺産に登録されていることもあり、兵庫県の観光地としては年間200万人前後と甲子園に次ぐ来場者数を誇ります。

その特徴は大天守と3基の小天守を櫓で繋いだ連立式天守と呼ばれる天守群や、登城するルートが渦を巻くような?形だというので渦郭式(実際にはこの分類は議論があるようです)平山城ということ、なんといっても平成の大修理で築城当初と同じ「白漆喰総塗籠造」が施されたことにより屋根瓦や格子などあらゆる所が白塗りされて”白鷺城”の名声を高めています。

 

学校は、旧制ではそれほど多くなかった市立の鷺城中学校として昭和14年に開校しました。

校名のとおり当初は姫路城内の三の丸(現在の桜門近くの千姫ぼたん園のあたり)に校地があったそうです。しかし、昭和20年の太平洋戦争末期の姫路大空襲で校舎は大半消失してしまいました。

この際、姫路城の連立式天守群や二の丸は奇跡的に米軍のレーダーには水面と映り(城の水濠?)攻撃目標から外れたために爆撃から免れ、唯一着弾した焼夷弾も爆発せず不発弾となったため炎上しなかったという奇跡が起こり、ほぼ無傷のまま現在でも優美な姿が残されています。

姫路市街の3/4が焼け野原になってしまったあとも空襲前と変わりなく建つ姫路城は市民の心の拠り所となり、その後の復興を見守ってきました。

 

学制改革で姫路市立高校に、昭和25年に現校名に改称して現在に至ります。

校歌は作詞:三木露風 作曲:平井康三郎で昭和27年制定です。旧制鷺城中学校時代は校歌といえるものがなく、戦後に正式なものが制定されて現在まで歌われていることになります。
市立姫路 (全4番)
 我が姫高は むつみあひ

 自由と自治を 重んじて
 文化国家の 建設に

 斉しく 心を傾くる

 

1番は学校のあり方や心構えのようなことを歌い、2番になって「天下に響く白鷺城、広峰 増位の深緑、海の景よき播磨灘…」と姫路城や環境が歌われています。

最近、作詞者の三木露風氏が市立姫路高校に宛てた手紙が発見されたことで原稿料や推敲過程が判明したそうです。私はこの原作や推敲にも興味があるので、どこがどう変わったのか知りたいところですね。

https://www.sankei.com/west/news/191025/wst1910250009-n1.html

 

この校歌が制定される前の数年間は校歌に準ずる”宣揚歌”というものが歌われていました。同校の説明によると、本格的な校歌としてではなくやや気軽に口ずさめるような歌だったようです。

作詞:茶谷敏 作曲:鈴木史朗で昭和24年作成で、どことなく逍遥歌のような体裁です。

市立姫路・宣揚歌 (全3番)
 東の空 明け染めて

 昇る朝日の 影させば
 播磨の野路に 霧はれて

 秀麗比なし 白鷺城
 清き眺めの その姿

 清きは誰が 心ぞや

 

なお公式HPでは「…播磨の野路の露はれて…清きは誰ぞ心ぞや」となっていますが、校史では「…播磨の野路に霧はれて…清きは誰が心ぞや」と記録されています。

 

平成元年には、姫路市制100周年及び市立姫路高校創立50周年記念として学校の敷地内に”パルナソスホール”と呼ばれる音楽ホールが開館しました。

今回は、富山県の富山西高校です。

http://www.toyamanishi-h.tym.ed.jp/

 

県都・富山市の南西部、市街地からは神通川を隔てた旧・婦中町にある学校です。

婦中とは、この周辺が婦負(ねい)郡のほぼ中央にあったことに由来しています。”婦負”とは古来から神通川左岸の大部分を占めていた地域を指し、古代の墳墓や万葉集にも歌われたゆかりある地名です。

その一方、日本四大公害病のひとつ”イタイイタイ病”が多く発生したという不幸な土地でもあります。

イタイイタイ病は、神通川上流の神岡鉱山から未処理のまま排出されたカドミウムが混じった川水が下流域の平野部で栽培されていた穀米や野菜などに蓄積し、それを食べてカドミウム中毒になったと考えられている公害病です。

古くは鉱山が開発された江戸時代から鉱毒被害が発生していたらしき記録がありますが、表面化し始めたのは大正時代、全国に知られるようになったのは公害問題が全国的な注目の的になった昭和30年代頃からです。公害病認定から50年経った現在もこの負のイメージを払拭するための努力が続けられ、再生が進んでいます。

https://www.projectdesign.jp/201406/pn-toyama/001425.php

 

学校は、大正13年開校の婦負農学校を前身としています。その名のとおり婦負郡の農業に寄与する学校で、校地もJR高山本線の速星駅の近くにあります。

学制改革で婦負高富山西部高婦負農業高と変遷した後、昭和45年に婦負高校、昭和51年に富山西高校と改称して現在に至ります。

校歌は作詞:相馬御風 作曲:片山頴太郎で昭和5年制定です。
富山西 (全3番)
 みのり豊けき 富山野の
 広きが中に 屯して
 額にかざす 三ツ柏
 勤労自治の 二筋の
 目標清き われらこそ
 まことの国の 宝なれ

 

富山西部高校時代に校歌があったかどうかは不明です。

部活動としてはフェンシング部が強豪で全国大会出場の経験があります。