校歌の広場 -26ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回で日本最古の校歌を紹介します。
最古は東京都のお茶の水女子大附属高校です。

通称"お茶高"と呼ばれる女子校で、幼稚園から大学まで網羅する国立大学法人・お茶の水女子大学の附属校のひとつです。このうち大学と高校は女子校で中学校以下は共学となっています。
以前紹介した奈良女子大附高も"お茶大"と同じ国立の女子大学の附属校なので、いわば親戚関係みたいなものでしょうか。
校名から千代田区神田・文京区湯島にまたがる"御茶ノ水"付近にある学校と思われそうですが、そこから4kmほど北西の文京区大塚に所在し、周辺には同じシリーズで紹介した跡見学園や筑波大学が隣接する文教地区です。

明治5年創立の官立女学校を前身とし一旦閉鎖となったあと、明治7年に開校していた東京女子師範学校に女学校の在学生を受け入れて明治15年に東京女子師範学校附属高等女学校と改称しました。
明治23年に本郷区(現・文京区)湯島に移転とともに高等女子師範学校附属高等女学校、さらに奈良に官立女子師範学校設立とともに東京女子高等師範学校附属高等女学校と改称しましたが関東大震災によって消失、昭和10年に現在地に再移転しています。
学校が本郷湯島にあった頃、地名を取って通称「お茶の水女学校」と呼ばれていたそうです。
学制改革で師範学校から新制大学となったとき、所在地の大塚から「大塚女子大学」とする案もあったようですが、"塚"が良くないとして学校発祥の地名を取り入れてお茶の水女子大学と命名され、現在に至ります。

校歌は昭憲皇太后によって下賜された御歌に東儀季煕が曲をつけたもので明治11年制定です。大学を含め附属校全体の"学園歌"の位置付けとして各校で歌われています。
制定当初は雅楽調の旋律だったそうですが、明治29年に西洋風の旋律に改められたとあります。
お茶の水女子大附属 (全1番)
 みがかずば 玉もかがみも なにかせむ
   学びの道も かくこそありけれ

玉(宝石)も鏡も磨かなければ、その価値も何ともならない。学問もそのようなものです。(ですから大いに勉強しなさい)」という意味ですね。

御歌を作られた昭憲皇太后は明治天皇の皇后で、皇室行事のかたわら明治期の日本近代化に大きく貢献した人物と言えましょう。
古来から式典・儀礼は和装が正式だったところを洋装で御出席されたり、皇室に止まらず社会事業に積極的に貢献されました。また幼少の頃から和歌や学問を好まれたそうで、女子師範学校や華族学校(学習院)の設立に関わり、女子教育にも尽くされています。その生涯はまさに"和魂洋才"の表れと言えますね。

最初に女子師範学校に下賜された「みがかずば」と華族女学校に下賜された「金剛石」は、和歌と唱歌の違いはあれど内容はほぼ同じで、ともに女性の資質や教養を磨くことに重きを置いた詞です。現代でも男女別なく通用する素晴らしいものだと思います。

さて、古い校歌シリーズは今回でとりあえず完結とします。
関東や関西、九州あたりでももう少しは見つかる可能性はあるので、またいつか追加で紹介できたら…と思いますね。
ここから最後の2校は、皇族から直接下賜された御歌を"校歌"にした形です。
初めは学習院女子の旧校歌ともされるものです。
学習院女子高等科 https://www.gakushuin.ac.jp/girl/

幼稚園から大学まで学生の全期間を網羅する総合学園で、中等科と高等科は男女別学です。
学習院中高と大学は豊島区目白、女子部は新宿区戸山にあり、どちらも中高一貫教育を行っていて高いレベルを保持しています。

学習院」とは、幕末頃に朝廷や公家の教育機関として京都御所に設立された学問所に、当時の天皇から"学習院"の額が下賜されて命名されました。
明治維新を経て東京の旧・江戸城を皇城として奠都された際、学習院も京都から東京に移転して明治10年に皇族・華族のための教育学校として改めて開校しました。私立学校の中でも華族が共同出資で設置し皇族も学ぶ機関として特別視され、のち宮内庁の管轄下に置かれ准官立学校扱いになっていたようです。
官立という名称は現代でいう国立に当たるものですが、意義としては明治初期の文部省直轄の学校といえるものではないかと思います。
ともあれ、当初の神田錦町から四谷へ、更に明治29年に現在の豊島区目白に移転して校地が定まりました。この頃に教科書や文房具などを入れる"背のう"、いわゆるランドセルが現在のものに近い学習院型に統一されています。
大正15年には"皇族就学令"、いわゆる皇族の学習の場が学習院・女子学習院と定められたため、その縛りが無くなった現在でも天皇陛下や愛子内親王殿下が通われました。
学習院ではスポーツや文芸活動が盛んで、『白樺派』を産み出した雑誌「白樺」も発行されるほどでした。

学習院女子は、明治18年に華族の子女のための官立華族女学校として四谷区(現在の新宿区四谷)に創立しました。明治39年に学習院と合併して学習院女学部となり、大正7年には港区青山に移転して女子学習院と改称しました。

これらの明治~学制改革を通じて、学習院では校歌に相当する歌は制定されなかったようです。
その代わり学習院では「習学修行の歌」、女子学習院では「金剛石」と「水は器」の2つの歌、「花すみれ」「月の桂」が時の天皇陛下や皇太后から下賜されて、奉賀式という式典で歌われていたようです。
このうち「金剛石」「水は器」はいくつかの文献では実質的な"校歌"とされているようなので、この2曲のみ紹介します。。
どちらも詩:昭憲皇太后御歌 作曲:奥好義で、華族女学校時代の明治20年に下賜され、現在でも中等科・高等科の入学式で歌われているそうです。
金剛石 (前半)
 金剛石も 磨かずば
 珠の光は そはざらん
 人も学びて のちにこそ
 まことの徳は あらはるれ

水は器 (前半)
 水はうつはに したがひて
 そのさまざまに なりぬなり
 ひとはまじはる 友により
 よきにあしきに うつるなり

この2つの歌は唱歌にもなり、また各地の女学校や高等女学校の校歌にも採用されました。昭憲皇太后は明治天皇の皇后です。その業績は次回で紹介しましょう。
大意は中国の古書・礼記の"玉磨かざれば光なし"、ことわざ"朱に交われば赤くなる"をモチーフにしたと思われます。

大平洋戦争終結後、大日本帝国憲法を始め戦前の様々な法令や制度の撤廃が断行されました。華族制度もそのひとつで、優遇措置や資産などが廃されて一般人と同じとなりました。
そうした時流の中で華族学校の学習院も廃止の危機にあり、生き残るために宮内省管轄から離れ、GHQと折衝の末に私立学校として存続が決定して現在に至ります。その初期には充分な財源が確保できず、学校経営のための金策は相当苦労していたようです。

戦前は校歌が無かった学習院ですが、戦後に就任した安倍能成院長によりようやく学習院全体の歌として院歌が作られました。
院歌は作詞:安倍能成 作曲:信時潔で昭和26年制定です。
学習院 (全4番)
 もゆる火の 火中に死にて
 また生るる 不死鳥のごと
 破れさびし 廃墟の上に
 たちあがれ 新学習院

この歌詞は、2回の東京空襲で学習院・女子学習院とも校舎が全焼し周囲も焼け野原となり、また上記の財政窮乏に見舞われながらも、私立学校としてようやく立ち直りかけていた時代を象徴しています。戦後はいわゆる新・学習院として不死鳥のごとく再出発しようという固い決意をこの歌に託したのでしょう。
2番は皇族華族の華やかな気風あふれる学校だった時代を花に喩え、その特長を失った戦後当時はただ厳しい現実を逞しく生きなければと、3番に人生も同じで懐古にひたる間もなくこの先様々な試練があっても希望を持って、4番で学習院の生徒一人ひとりが生命をこめて真理と平和のために世に尽くそうと諭す内容ですね。

こうして戦災から甦った学習院は、現在も皇族の学ぶ名門私立御三家の一角として存在感を出しています。
200年近くの伝統と、知徳体の調和と豊かな人間性を育成を誇る日本有数の学校です。
静岡県は東西に長い県で、静岡市、浜松市を筆頭に人口の多い町もあるので高校の数も150校ほどと割合多目です。
近年の少子化による統廃合は他県に比べると少ないほうでしょうか。

私は静岡県立図書館と浜松市立中央図書館を訪問しています。
どちらも校史などの所蔵数は充分ありますね。
校歌集としては「静岡県高等学校集」というのがあり、昭和50年発行当時の115校ほどの校歌が記載されています。

静岡県立中央図書館 (1回訪問)
県立図書館は県を代表する公共施設のひとつですが、かといってどこも交通至便なところにあるわけではありません。
鉄道の最寄り駅は静岡鉄道・県立美術館前駅とJR草薙駅になるでしょう。静岡駅で乗り換えで、どちらの駅からも徒歩で約20分です。晴れた日は富士山が眺められ、お茶畑から見る富士は素晴らしいものでした。
静岡駅からだと静鉄バス美術館線が直行約30分ほどだそうですが、発着は昼以降しか無いので調査には不向きかと。
(調査帰りに、お茶畑から見た夕方の富士山)

図書館は2年前に床構造に亀裂が見つかり休館していましたが、再開後に初訪問したときは整理されていて綺麗でした。

アクセスのしやすさ… 静岡駅乗り換え最寄り駅からバス・徒歩。そこそこ距離があります。近く移転計画が持ち上がっているようです。
所蔵本の充実さ… 県立図書館だけあって学校史は全県規模でカバーしています。校歌集あり。
所蔵形態など…○ 学校史は多くが書庫ですが、コピーは可。

浜松市立中央図書館 (3回訪問)
浜松市のほぼ中心部、浜松市役所や浜松城址の近くにある図書館です。
アクセスはバスか徒歩で、バスだと駅北口バスターミナルから遠鉄バスで「市役所南」「紺屋町」下車が近いと思われます。
徒歩だと浜松駅北口からまず西に向かい、大通りに出たら北方向に10分ほど歩くと連尺交差点に差し掛かり、そこから北西の高台の上が図書館です。約20分もあれば到着します。

アクセスのしやすさ… 浜松駅から北西に1kmほどなので徒歩でも。
所蔵本の充実さ… 他の市立図書館と比べて郷土資料に特化しているそうで、主に中・西部の校史が多いです。
所蔵形態など…◎ 校史は開架棚に充実していますし、コピー可なので調査としては助かりますね。

浜松城址は模擬ながら復興天守があり、野面積み石垣も見所なので時間に余裕があれば見学しても良いでしょう。

静岡県では旧制に多少不明なところが残っていますが、おおむね調査は終了しました。

今回は、大阪府の梅花中学・高校です。

特定の学校の「校歌」として作られ制定されたものとしては、ここの初代校歌が日本最古に当たると思われます。

https://www.baika-jh.ed.jp/

 

豊中市の中央やや北、阪急宝塚本線豊中駅から東に1kmほどの場所にある学校です。

周辺はほぼ住宅地であり、その中に幼稚園・中学・高校が同居している様相です。

 

創立者の澤山保羅と他数名の協力者によって、明治11年に大阪市西区土佐堀町付近に開校した梅花女学校を創始としています。キリスト教主義の学校ですが、いわゆるミッション・スクールではなく日本人が運営する「自給学校」とされています。

校名の由来は梅花学園HPによればキリスト教の本町教会と浪教会が設立に関わっていたことから付けられたそうですが、大阪府の花でもあり古くは難波津の歌にも出てくる梅の馥郁たる薫りが伝わってきそうな名前ですね。

大正2年に梅花高等女学校を併設し校地も土佐堀から北野に、更に豊中に移転しています。なお、後年中学・高校となるのは梅花高女のほうで、梅花女学校はのちに梅花女子専門学校となり、戦後は梅花短期大学→梅花女子大学となりました。

 

初代校歌は作詞:大川真澄 作曲:山田源一郎で明治25年制定です。

梅花女学校 初代校歌

 浪速の里に 生ひしげる

 梅の若木の まなびやは

 降る霜雪に たゆみなく

 まもる操の 春かけて

 かをらん花の 時を待て

 この花の にほへるごとく

 つとめいそしめ をとめ子ら

 

この1番と2番冒頭に「今を春べとこの花の、かをりにかをる…」とあることから、有名な”難波津の歌「難波津に、咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと、咲くやこの花」”を下地に取り入れた感があります。和歌など古典では花=桜のイメージがありますが、この歌ではを指しているそうです。

開校から14年目、まだ歴史も浅い頃の作とあって「梅の若木のまなびや」と謙遜しつつ、やがては「かをらん花の時を待て」と学業成就・努力が実ることを梅の花が春に咲く様になぞらえて、そのために努めよ励めよと歌っています。まだ”校歌”という概念が芽生え始めた頃の作にしてはその後作られたものに劣らない出来ですね。

 

二代目の校歌は「園の梅」という副題があったようですが歌詞、作者、制定時期などは詳細不明です。

三代目校歌は作詞:清水千代 作曲:岡野貞一で昭和3年制定です。創立50周年記念、また豊中移転を機に変更したようです。
梅花高女、梅花中・高 (全2番)
 箕面山脈 匂ひつつ
 麦生にうるむ 春の色
 前途の希望 輝けと
 神こそいませ わが梅の園

 

1番「箕面山脈」、2番「豊中の原」の麦や芒といった原野的な風景にあっても、神の御加護が満ち渡る学校であるよという意味が込められていると思います。

 

梅花高女は学制改革で中学校と高校が相次いで設置され、現在では併設型中高一貫校としての梅花中学・高校となっています。

中学・高校の校歌は現在でも「箕面山脈」のようですが、これとは別に創立100周年を記念して”学園歌”が制定されました。文字通り中学・高校・大学共通で歌われる歌です。

学園歌は作詞:阪田寛夫 作曲:大中恩で昭和52年制定です。

梅花 学園歌(全3番)

 むかし 浪華の甍のかげに
 梅の園生を 夢見た保羅
 風は立ち 時流れても
 香りはさやに 新しく
 いのちの朝の いまここに
 光に歩む 梅花学園

 

梅花学園と阪田寛夫氏の関係は、氏がキリスト教徒だったことと未確認ですが父親が梅花の関係者だった縁で作られたようです。久居高校の項でも触れたように従弟・大中恩氏とのコンビで三重県内で多くの校歌を作られています。”林一夫の歌より”の注釈があることから林一夫なる人物の歌集か詩集からヒントを得て作詞したと推測でき、三重県の校歌と若干作風が異なっている感じがするのはベースがあったからかと思います。

 

現在は豊中市所在の学校にあって、開校当時を偲ぶ情景から始まります。創立者の澤山保羅(さわやま・うろ)氏は山口県出身のキリスト教徒で洗礼を受け、使徒パウロにあやかってこの名前に改名したそうですが、校歌では「うろ」と歌っているようです。

2番に「初花白く、いま香れ」とあることから白梅の花のことかと思いますが、白い花の紅梅というのもあるそうです。紅梅・白梅の区別は花の色ではなく枝の断面の色だそうで、1本の枝から紅白の花が咲く”源平咲き”なんていうものも見かけるようです。

3番はキリスト教の学校らしく「神の光に伸びゆく若木…小暗い夜の明け星と、かがやくことを いま祈る…」と新約聖書の教えを端的に表した詩で締めくくられます。全体的に女子校らしく詩とメロディーの調和が素晴らしいと感じ、個人的にも気に入っています。

また、初代校歌は定義によっては日本最古のひとつですので、是非”復活”させてもらいたいかなと思っています。

 

部活動ではチアリーディング部が関西の強豪で、中学・高校ともチアリーディング日本選手権大会で何度も優勝しています。ダンス部競技かるた部も全国大会出場経験があります。

今回は、北海道の北星学園系列の3校です。

古い校歌は北星学園女子中学・高校のものを紹介します。

北星学園大学附属高校 http://www.hokusei-s-h.ed.jp/

北星学園女子中学・高校 http://www.hokusei-ghs-jh.ed.jp/

北星学園余市高校 http://www.hokusei-y-h.ed.jp/

 

北星学園は大学と札幌市と余市町に3校の高校を経営する総合学園です。

新約聖書の”Shine like stars in a dark world (暗き世に輝く星のように)”を由来とし、北海の星という意味合いで付けたものでしょうか。

 

北星学園大附高校は札幌市に昭和37年に北星学園男子高校として開校しました。校名に”女子高校”は数多あれど”男子高校”と付ける例はここ以外にはあったのでしょうか?

昭和62年に共学化と共に北星学園新札幌高校、北星学園大学との高大連携教育の一環として平成14年に北星学園大学附属高校と改称しました。

校歌は作詞:西森茂夫 補佐:加藤愛夫 作曲:二俣松四郎で昭和39年制定です。

序、1番、2番、結という構成から成る校歌もほとんど見かけないものですね。ここでは序と1番のみ紹介します。
北星学園大附 (全2番)
 陽の光 水の面にわたらず
 厚き雲 低くたれわたり
 いくさ わざわい いまだ断たれず
 さかまく嵐に あかつきを呼ぶは たがうたぞ

 ああわが学友よ 青春の潮
 北星の学園に たぎらして
 歩みゆく日々は 解放の人 イエスの御跡ぞ
 われらつねに 地の塩となりて
 わが学園を 自由あふるる庭となさん

 

キリスト教の学校らしく、”世の光、地の塩”や”一粒の麦”が歌いこまれていますね。

北星学園男子高校として開校した当初の数年は賛美歌が歌われていたようです。賛美歌312番「いつくしみ深き、友なるイエスは…」で始まるものです。

 

北星学園女子高校は北星学園の源流ともされ、アメリカのキリスト教宣教師サラ・クララ・スミス女史によって明治20年に設立されたスミス女学校を創始としています。

明治27年に札幌農学校の新渡戸稲造の助言などによって北星女学校と改称、北海道の女性教育に貢献しました。昭和18年に北星高等女学校、戦後の学制改革で北星学園中学・高校となった後、昭和37年に大学と男子高校開校とともに北星学園女子中学・高校と改称して現在に至ります。

作詞:第一~三回生有志 監修:永田方正 原曲:スコットランド民謡で明治27年制定です。
北星学園女子 (全2番)
 北の空なる 大星は

 いづこの隈をも 照らすらん
 文の水上 むすぶての

 しずくごとにぞ 影は見えける

 

北の空なる大星」とは北極星を指し、文字通り天の北極にあって位置を変えないことから北の象徴や人生の指針、目印などとして多くの学校の校歌にも歌われていますね。2番「千代へてすまん、影ぞゆかしき」と永遠を歌い、北星女学校もそこで学ぶ生徒もそのような心でありたいとさとしているようです。

 

最後は北星学園余市高校です。一般的にはドラマ「ヤンキー母校に帰る」のモデル校として有名でしょう。

昭和40年に小樽市・余市町の生徒の受け皿として誘致され余市町に開校しました。その後、周辺の生徒減少を受けて廃校の危機に直面した際に日本で初めて全国の高校中退者や不登校者などを受け入れる制度を実施、生徒数も持ち直して現在に至ります。

しかし、ここ数年は通信教育校やフリースクールが増えてきているため再び生徒数減少が続き、経営難から廃校ギリギリまで追い込まれている状況だそうです。

校歌は作詞:北垣俊一 作曲:川越守で昭和47年制定です。
北星学園余市 (全3番)
 うるわしき海 はるかなシリパ
 われらのまなびや ここにあり
 真理きわめん 若人のいぶき
 ああかぎりなく 地にみちん
 まなべ 青春の意気たからかに

 

シリパとは余市町の北にある岬で、海に向かってだんだん高くなり海岸部で急に断崖絶壁となって海に落ち込んでいます。その姿がハワイのダイヤモンドヘッドに似ているのと、夕日が映える美しい景勝から”サンセットダイヤモンドヘッド”と呼ばれているそうで、北星余市の校舎からも海を隔ててシリパ岬が遠望できます。

 

部活動も盛んで、北星学園大附はフットサル、女子高校は新体操部とバスケ部などが全国大会に出場しています。