秋田県立 角館高等学校 (三好達治の足跡 その4) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、秋田県の角館高校です。

http://www.kakunodate-h.akita-pref.ed.jp/zenniti/

 

仙北市は秋田県の東部、岩手県との県境にある山間の町です。

ほぼ中央に水深日本一(423m)の田沢湖、その南西方向に角館地区があります。仙北市は平成17年に角館町・田沢湖町・西木村が合併して成立しました。ちなみに「仙北」とは秋田県南半分あたりの名称で、一説によると"鳥海山の北=山北"から山が仙に転じたとか。

 

旧・角館町は”みちのくの小京都”とも呼ばれる歴史の町です。

室町時代後期に仙北地方を制した戸沢氏が本拠としていたのが角館城でした。その戸沢氏から蘆名氏、さらに秋田久保田藩の佐竹氏の一族・佐竹北家が角館を引き続き統治、その初代所領・佐竹義隣と二代目・義明によって角館の基礎が作り上げられました。

この二人の妻はともに京都の公家出身で、さまざまな面で京文化を角館に持ち込んだといわれます。嫁入りの時に持参した桜の樹が枝垂れ桜とされ、町内には約450本ものシダレザクラが植えられて春には壮大な景観となります。

角館城下は主に武家屋敷が立ち並ぶ”内町”と商家や町人が住む”外町”に分けられます。国の伝統的建造物群保存地区にも指定された内町には、薬医門構えや池泉回遊式庭園のある青柳家や直系の子孫が今も居住している石黒家、蘆名氏譜代の岩橋家などの武家屋敷が状態良く保存されています。

見所の多い角館は秋田県有数の観光地となり、年間200万人が訪れているそうですね。

 

その内町の一角に角館高校があります。

大正14年に角館中学校として開校し、昭和23年の学制改革で角館北高校となりました。そして角館南高と統合して角館高北校→再度分離して角館北高と改称を重ね、昭和29年に角館高に落ち着きました。平成26年に角館南高と再統合して新・角館高となり現在に至ります。

校歌は作詞:島木赤彦 補作:齋藤茂吉 作曲:小松耕輔で大正15年制定です。

角館高校 (全4番)

 北日本の 脊梁の

 千秋万古 ゆるぎなき
 山の間に たゝへたる

 田沢の湖の 水落ちて
 鰍瀬川と 流れたり

 

この校歌制定にはエピソードがあります。角館出身の画家・歌人の平福百穂氏は旧制角館中学校の創設に関わりがあり、アララギ派歌人でもあったので同志の島木赤彦氏と斎藤茂吉氏に作詞を依頼しました。ちなみに角高の校章も平福氏作だそうです。

大正14年に平福氏は赤彦を角館に招待、田沢湖や角館の町並みに接して感動した赤彦氏でしたが、帰郷して早速作詞に取りかかった矢先に末期ガンが発覚してしまいました。そこから数ヶ月、まさに命を削って詞を紡ぎ出していったのですが完成できないままついに世を去りました。死の直前、推敲と増補を頼まれた斎藤茂吉氏はアララギ派の門弟と協力して、角館中の新校舎落成式直前に完成させました。この時の推敲過程の原稿が石碑として平福記念美術館に残されています。

3番「淵源ふかき弘道の、昔のあとを偲ばんか」は、角館にあった秋田藩校の分館・弘道書院を指します。形式的には郷校とされたこの”学校”によって角館は文教の町としての側面も持っていたようです。

 

もうひとつの前身校である角館南高校は、昭和3年に角館高等女学校として開校、学制改革で角館南高校となったあと一旦角館北高校と統合して角館高南校に、昭和27年に分離して再び角館南高になりましたが、平成に角館高に統合されました。

作詞:川島堰一郎 作曲:小松耕輔で昭和6年制定です。

角館南高校 (全3番)

 駒形山の峰 青雲しのぎ
 瑠璃としかがよふ 駒草ゆかし
 すがしきかたちを 範とぞ仰ぐ
 さやけきまごころ 少女子われら

 

角高と角南が統合して新・角館高校となった現在は旧・角館高校の校歌が引き続き歌われますが、旧・角館南高校の校歌も第二校歌として受け継がれています

 

高校野球では、平成26年夏に春夏通じて初の甲子園に出場しました。残念ながら初戦敗退でしたが、新しい歴史を刻みました。

進学としては秋田大学や東北大学の他、東北福祉大学など私立大学などにも多く実績を出しているようです。

 

ここまで紹介した校歌はどちらも戦前に制定されたものが現在も歌われています。では、三好達治氏と角館高校の関係は何なのでしょうか。

昭和29年頃に角館中学校から角館図書館長の富木氏に校歌作詞の依頼があり、角館出身の佐藤義亮氏が創業した新潮社を通じて三好氏にお願いしたそうです。そして角館に講演がてら訪問して2年後に完成しました。その完成原稿には『角館高校々歌』とあったのです。

つまり三好氏は角館高校の校歌のつもりで作ったらしく、詞もやや難解かつ高尚な内容でした。校名が入っていなかったのが幸いしてか、指摘されたその場で高校を中学校に変えただけで済ませたそうです。

特別に「角館高校」だった角館中学校の校歌を紹介しておきます。

作曲は諸井三郎で昭和31年制定です。

角館中学校 (全3番)

 いささ川なれ 玉川の

 水上とほき 八十の谷
 若き心の たぎつ瀬を

 つどひあつめて 指す方の
 寄りあひにつつ ひと方なるを

 

いささ川」とは”いささかの川”で小川や細流を意味するようです。角館ではまだ細い流れの玉川は、水上の多くの渓谷から落ちる雫を集めて川となって来るように、若き心のたぎつ瀬=若者の燃える希望がこの学校に集まり、ひとつの流れとなって海へ向かう様を未来になぞらえているという内容でしょう。

この玉川は下流で雄物川と合流、横手市、秋田市などを通って海に注ぎます。3番「この面にむすぶ友垣ら、たづさへゆかな、天地のむた窮みなき雄物川みづ」は、角館の校庭に集う友人たちが、手を取りあい、共に未来に行こう、その友情は雄物川のように永遠に…と解釈することができます。

三好氏の校歌は、志を持った学生たちに光陰矢の如しのような諭しの他にこうした人間の機微に触れたものも含んでいて、考えさせられるものがあります。意味を解釈してこそ胸を張って歌ってほしいものですね。