高知市の中心部、高知駅から南東の追手筋かつ高知城の東にある学校です。高知城やひろめ市場といった観光地も近くにあります。
高知県では最古の歴史があり、嚆矢は明治7年に高知藩校・致道館の跡地に設立された陶冶学舎に併設された変則中学に始まります。
その後、師範学校附属の変則中学を経て明治11年に高知中学校として独立開校し、明治32年に高知県第一中学校、大正11年に高知城東中学校と変遷改称しました。
最初の校歌は作詞・作曲:石川一で明治28年制定です。公立としてはここが最古と思われます。
旧制・高知一中 (全3番)
折りてかざさん大丈夫が 桂浜辺の月きよく
剣を洗ふ秋風に 鏡河原の水寒し
我が大君の御ために 心を尽くし身を尽くし
斃れて止みし人々に 誉れは今も大島の
岬の岩根 長へに 浪の音にも残るなり
いでや我等も君のため ただ一筋に心がけ
文武の道を競ひつつ 事ある時は大君の
錦の御旗 ひるがへし 皇軍に魁し
敵のやつばら 掃はなむ 骨嘯きて肉吼ゆる
海南男子は君の為 尽くせ人々 尽くせ人
これで1番とはなかなかに長い校歌ですね。2番「死すべき時に死せずして…君の為、死ねや人々、死ねや人」、3番「日本刀の切先に、敵の頭を貫きて…」などと今の感覚ではあり得ない言葉が並んでいます。
土佐国は土佐勤王党という結社があったように尊皇攘夷の気風が強かった土地です。薩長土肥の一角にあって明治維新を遂げた中心人物も多く、「大君の御ために、心を尽くし身を尽くし、斃れて止みし人々…」とは坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太といった維新の完成を見ずに世を去った志士を歌っているのでしょう。
明治28年と維新後それほど経っていない時期を反映、そして土佐の威信を歌ったともといえます。
上の校歌が教育的に過激だったからか、城東中時代に新たな校歌が制定されました。
作詞:土井晩翠 作曲:細川碧で昭和10年制定です。
旧制・高知城東中 (全3番)
見よ 南学の発祥地
六百年の伝統を
うけつぎ来たる わが高知
その第一の中学の
わが校 堅き基礎据ゑぬ
明治十一 御代の秋
すでに城東中学校となっていましたが、高知県最初の、また最高の中学校と強調していますね。
晩翠氏の作にしては珍しく、全体的に土地柄や地元の偉人などが歌われていません。織り込む資料が少なかったか、学校の標語や理想を高揚する方針で進めたのかというところでしょうか。
学制改革で追手前高校に、昭和25年に現校名に改称して現在に至ります。定時制課程が高知北高校として独立後もしばらく間借りしていたことがあります。
公立トップの進学校として多くの学生が国公立・私立の大学に進学しています。
校歌は作詞:中島佐輔 作曲:平井康三郎で昭和28年制定です。
高知追手前 (全4番)
仰ぐは高き 時計台
久遠の時を 刻みつつ
自由は 若き魂に呼ぶ
新たなる 新たなる 追手前
冒頭に学校のシンボルの時計台が歌われています。そのためか公式HPのアドレスも時計台になっていますね。
"時計台"がいつ頃建設されたのかは不明ですが、少なくとも明治期から存在していたようです。戦前の資料を見ると和風建築の校舎の瓦屋根に付随したひときわ高い木造の鐘楼のような感じで、現在のものとは趣が違います。
昭和6年に新校舎をコンクリートの西洋風建築にしたとき現在の形に近い時計塔になりました。以来一部改修はありましたが、100年近く高校や地域のシンボルとして高知市民にも親しまれています。
私自身も高知遠征したとき、高知県立図書館(オーテピア)の向かい側が追手前高校の校地でこの時計台がよく見えました。下手するとはりまや橋より見ごたえはあるかも?もう少し西に行くと山上に高知城が見えます。
高校野球では、春夏ともに高知県初の代表にして旧制唯一の全国大会出場校でもあります。
城東中時代の昭和21年夏と22年春に出場して5勝を挙げました。終戦直後ですが校歌は流れたのでしょうか?
ちなみに昭和30年に春夏連続出場した城東高校は後の高知高校で無関係です。