②原爆と祖父
当時、広島は暴走族のメッカだったので
友達のお兄さんはどこかの暴走族に入っていました
付き合っていた流れで中学になれば自分も入っていたと思いますが、実家で共に暮らした祖父の影響から別の道を歩む事になります流
祖父は原爆で両親と弟を亡くしましたが
長男として弟や妹を育てあげました
慈恵医大と九州歯科大を出ているので「医師」と「歯科医」の2つの免許を持っています
離婚した母はDVの影響で歩く事もままならず、1年程休養した後、祖父の医院を手伝わせてもらう事になりました
写真:前列右が祖父、後列左から二番目が母
祖父は仕事が終われば飲みに行くので夜中まで家にはほとんど帰ってきませんでした
しかし、私が実家に住むようになってからは仕事が終わればすぐに帰ってくるようになりました
写真:実家に帰って1年程経った頃
そして、小3になった頃二人には
ひとつの習慣ができました
それは夕食後、ニュースの解説や戦時中の話を聞かせてもらうといったもの
最初はよく意味も分かりませんでしたが、日頃は寡黙な祖父が話してくれるので、できるだけ聞くようにしていました
世の中の仕組みや戦時中の貴重な話を沢山聞かせてもらいました
祖父は東京で学んでいた時に原爆を落とされています
家の下敷きになった父と母、一番下の弟を亡くして戦争の悲惨さを目の当たりにしてきていましたがアメリカを恨むような発言は一度もありませんでした
話の内容も戦争に翻弄されながらも真っ直ぐに生きた人達の回顧録の話が多かったです
追い込まれた状況でも
大切なモノを見失わない
そこに人としての価値があるのだと語っていました
そんな祖父との「習慣」は高校を卒業するまで続きましたが、東京への進学が決まったある日、親戚からの話を聞き別の意味を持つ事になりました
親戚から聞いたのは
祖父は「戦時中の話を誰にもしてこなかった」というもの
自分の子供だけでなく、誰に頼まれても語りたがらないのだと言います
言われてみれば、戦時中の記録を残す為にとノートを渡された所を見たことがありましたが「何も書けない」と言っていました
あの時は「思い出せない」のかと思っていましたが、そうではなかったようです
祖父の妹の一人は原爆投下の数日後、祖父と二人で両親と弟の亡きがらを掘り起こしています
NHKの取材が来た時に偶然知ったのですが、妹はその時の経験を詩にして峠三吉らと詩集を出版していたようです
林幸子というペンネームで『ヒロシマの空』という詩を書き『河』という劇の中で今も語り継がれています
そして、その詩を読んだことで祖父が語りたくなかった理由を理解したのです
写真:後に経営していたイベントスペースで上演した時のチラシ
詩の内容は
家があった所を掘ると生焼けの弟の内臓が出てきた
母親の骨を口に入れた等
激しく原爆の悲惨さが伝わってくる内容でした
そこまでは自分も聞いていませんでした
「地面に転がる鍋に焦げたカボチャが残っていた」
という文章から祖父がカボチャを苦手にしていた理由もその時知りました
戦争の話の前になると日本酒を飲み始めたのも
そうでもしなければ語れなかったのだと思います
それ程の覚悟で話てくれていたにも拘らず、話に飽きた私は席を立った事もありました
祖父が話を押し付ける事はありませんでしたが、体験を伝える事で平和への想いを繋げて欲しかったのかもしれません
アメリカへの憎しみを語らない姿勢も父への復讐にこだわる私を解放しようという意図があったのでしょうか…
親族からの話を聞いた時、被爆者としても人としても生き方の見本を見せてくれた
祖父の想いを継ぎたいと感じました
東京に発つ日、道を照らしてくれた祖父への感謝が溢れ出し「ありがとうございました…」と呟きながら新幹線で4時間涙を拭い続けました