「私の母の指先とうなじ」 | 中嶋柏樹のブログ

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  「私の母の指先とうなじ」
 
 

 郷里の兄嫁からのメールが私のパソコンに入りました。忙しくても兄嫁への返事は優先しようと心がけているのですが、手慣れていないスマホに入ると返事の入力が面倒なのです。義姉は商工会議所のパソコン教室に通うと知らせて来ていたので、その成果のテストメールかと思いましたら母が入院したとの知らせでした。電車で数時間なので日帰りできる距離なので面倒がらずにお見舞いに行っていますが、母が入院している病院と実家とは別方向なので寄らずに帰って来てしまうこともあります。
 義姉は私が実家に寄るものと思ってお土産を準備していたこともあったようで、見舞いに行くと知らせると母の枕元の近くに私の妻が喜ぶ郷土菓子が置いてあるようになりました。それからは持参した義姉が好む生菓子を置いて、義姉が置いた郷土菓子を貰って帰るようになりました。
 
 
 
 
 母は不満を口にしない人だったので本当の気持ちは分かりませんでしたが、私がお見舞いに行く度に「もう来なくてもよい」と言いました。そう言いながらもそう言いながら嬉しいのだろうと思いましたが、母は”言い出したら聞かない”性分なので最後にして欲しいことはないかと尋ねますと、「葬式用の写真」を作って欲しいと言います。母が好む薄紫の着物を着たスナップ写真を写真帖から出したので、これを拡大したらボケボケになっちゃうと言ってもそれで良いと言います。
 更に金婚式を記念してお宮さんの前の写真館で撮ったと云う写真で、父がモーニングを着て左側に立ち母は黒留袖を着て右側の椅子に座っています。これは仏壇に飾ってある母の両親の写真と同じサイズに縮小して欲しいと言います。
 
 
 
 
 文化の日の叙勲式にでも行きそうな両親の写真は見せて貰ったことは有りませんでしたが、母は父が写真写りが気に入らず誰にも見せたことは無かったと言います。頭髪が薄い父は”つるハゲ”に見える写りが気に入らなかったのは分かりますが、ただ単に上からの照明が強かっただけでしょうから今どきの写真技術で父が満足するように頭髪を復活して貰おうと思いました。
 兄に報告を兼ねて相談しますと、”言い出したら聞かない” 性分のバアちゃんだから納得するようにやってくれと言います。そして余分の事をさせちゃってスマナイねと惣領らしいことを言います。あのバアちゃんだからまだ先のことだと思うが、その時が来たらそうするよと言いました。
 そして暫くして、驚いたことに母から「写真を受け取った」というメールが届き、とても満足していると云うものでした。母は市の国際交流課が主催するパソコン教室に通い、ネットサーフとメールの送受信が出来るようになったと云うものでした。
 
 
 
 高校を卒業して大学進学のために上京してからは、月に1回か2回程度しか帰省せず暮正月は3泊4日が最多でした。生活の中心が東京になってしまうと、食べてゴロゴロしているしか無く退屈してしまうからです。しかも帰った日の夜は大歓迎されますが、その歓迎は次の日ぐらいしか続かないからです。
  母を思い浮かべますと写真帖に収められた母の写真がランダムに浮上するかのようですが、それぞれの写真は母に変化を感じた時のものである事が共通していると思います。そしてそれらが帰省した時のものであり、なぜか殆どそれにエピソードが伴われ無いのが共通しているように思われます。
 しかし遠く離れた郷里の母を思いますと、いつも若い日の母が縁側に引き出したミシンを踏んでいる情景が浮かびます。夏の日の母は半袖のブラウスにセミタイトのスカートでサロンエプロンを締めています。私はいつもその傍らで洋裁の道具をオモチャにして遊びハサミやノミのようなボタン穴をあける道具など、ちょっとした不注意で怪我をしそうなものばかりで遊びたがり、気が気でない母はときどき横目で私を見て困ったような顔をしました。
 
 
 
 病弱でいつも微熱を出している母はときどきサマーニットのカーディガンを羽織り、私がこっそりエプロンのひもをほどいてしまうのをほどきにくくするためにも羽織りました。私は母に見つからないようにほどくのが楽しみで、それを知らずに立ち上がって残念そうな顔をする母を見るのが幸せでした。
 洗濯掃除に台所仕事と朝から晩まで立ち働き、その間も寸暇を惜しむように家族の衣服を繕う母に、一寸でもよいからかまって欲しくて叱られるのでも嬉かったのです。
 冬の日の母はぶあついニットのカーディガンを着て首のまわりが寒いからとマフラーをして、掘炬燵に入って編み物をします。一日じゅう家の中を動き回っているためか足を出して座るよりも楽だからといい、いつもきちんと正座をしていました。私は母の横に潜り込んで膝の上に顔を乗せようともがきます。母は編み棒が目を突いてしまうからと、私の鼻をつまみます。私は息苦しくても膝から下りたくなくて必至に頑張りました。
 
 
 
 
 子どもの頃の私はいつも母と一緒でした。隣の町にある中学校の寮に入るまでほとんど一緒に居たように思います。わたしも母もからだが弱くいつも風邪ばかり引いていたので家にばかりいたのではなく、母はわたしをいつも傍らにおいていたかったのではないかと思います。わたしの母はひとりっ子でしかも両親と早くに死に別れたので「子どもたちは自分の味方」と口癖のようにいつも言っていました。暗にわたしの父が母にとって」どんな存在であったかをも語っていたわけですが、その頃のわたしはナイトのような気分で母の信頼に応えようと思い、信頼されていることに誇りと喜びを感じていました。
 母はわたしが子どもであることにお構いなしに複雑な大人の世界の話をしました。自分の生い立ちのこと、女学校の頃のエピソード、思いを寄せていた級友の戦死、父との出会いなど。父から熱烈なプロポーズをうけても分不相応で応じる気になれず、逃げ帰っていた郷里へまで訪ねて来られてしまったので、やっていける自信のないままに結婚したとか。話す相手が無かったので、子どもなりに理解するだろうと思って話したのでしょう。
 
 
 
 たて続けに子どもが生まれたので子育てに追われている毎日だったが、毎晩午前様で休みの日は好きなスケッチに出掛けてしまい「子どもだけが自分のもの」としみじみ語り、子どもを育てていて苦労に思ったことは一度もないし、子どもが傍らに居てくれるだけで幸せだったと言います。
 その母が、お父さんから「髪の毛がとても綺麗だったので結婚したいと思った」と言われたとか、「手も綺麗だったし、特にうなじが美しかったから」と言われたと言います。なにを考えながら手仕事をしていたのか、突然手をとめてしばらく遠くを見つめたのち冗談ぽく自慢そうにチョッピリ子どもっぽく言います。
 自慢の髪とうなじを父に褒められたのが余程嬉しく、母にとって言わずにはいられない思い出だったのでしょう。