おとなりは「仁侠」のドンと「政界」のドン | 中嶋柏樹のブログ

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おとなりは「仁侠」のドンと「政界」のドン

 

 

 

 

 我が家の前は女子高校で高いコンクリートの塀とこんもりとした椎の樹の並木で、二階のテラスからでも樹々の隙間からテニスコートの一部がチラリと見える程度で、まさに秘密の花園ならぬ”女の園”のようでピアノの伴奏と合唱の歌声や体育時の歓声しか聞こえません。そんな学校があるので家の前の道路は通称「女子高西通り」と呼ばれていました。
 我が家の母屋と庭を挟んで別棟があり、人力車の車庫と車夫の夫婦の住居になっていたようです。今は変哲もない”仕舞屋”にしか見えませんが、アプローチと石造りの門が立派すぎて不自然です。しかし、人力車の車庫と車夫の夫婦の住居のために、立派すぎる石造りの門が造られたのではありません。母屋の表玄関が北東の”鬼門”のために、それに勝る門を建てる必要があったようなのです。
 そして今は、関東一円を縄張りにするヤクザの親分が内妻と住んでいて、時にVIPを対象とした「賭場」が開かれていて、人力車の車庫だった部屋に床を張ってその開場となっています。

 親分の本妻さんは大柄で迫力満点の女性ですが、内妻さんは小柄で楚々とした女性です。親分は賭場に行く時には必ず内妻さんと一緒に行き、カバンを持たないカバン持ちと冗談半分で称しています。
 実際のところ内妻さんは”あげまん”であるとの確信があるようで、親分は大きなお金が動く賭場へは必ずカバンを持たないカバン持ちを連れて行くようです。そして大きな金額の紙幣を詰めた重いトランクは、若くて屈強な若衆頭に持たせているようです。浮世絵に描かれているような姐さんで男好きする女性がその場にいますと、プロの博徒でも気が散るので親分の勝率が断トツにアップしているらしいです。
 今は親分の別宅になっている人力車の車庫と車夫の夫婦の住居だった家は、登録有形文化財に申請したら認可されそうな古さですが、出来るものならヒノキの薫る数寄屋造の新築にでも住みたいのでしょう。

 

 その為にか、なんの変哲もない”仕舞屋”にしか見え無い家に、その気持ちがさせたのか内装工事で一変させ豪華な”御殿”のようになっています。親分の言によれば本物のヤクザはカタギさんには一切迷惑を掛けないようにしているので、内装工事でもご近所さんに迷惑にならないよう大工さんにお願いしていたとのことです。日頃に比べ、確かに多めの出入りはあったようですが、いつの間にか工事は終えていました。

 

 

 

 

 昔からヤクザの仕事は「博打」なので江戸時代の国定忠治や大前田英五郎の流れを汲む真っ当な「博徒」の末裔であることが誇りであるような言い方をします。鷹揚で偏見を持たない私の父が家賃を貰うだけの口約束で家を貸してしまったので母は嘆いていますが、親分はこの家は屋敷の奥にあるので警察に覗かれる心配はないし、賭場を開いていても家主の了解を取ってからでなければ警察は踏み込めないので安心だと言います。「女子高南通り」沿いには親分の本妻さんと堅気で興行師の長男が住んでいます。

 我が家の北側には路地を挟んで牛乳屋さんがあります。路地に沿って東西に細長く民家を2軒ほど繋げたようで、表通りに面した4畳半程度の小さな部屋には天井に届くほどの大きな冷蔵庫と作業テーブルしかありません。毎朝早くに牛乳屋のオバさんが配達の準備をするだけで、牛乳屋さんの看板は掲げて有りませんが買いに来たら小売はしているようです。定期的に牛乳販売店の軽トラックが小母さんが配達する牛乳とヨーグルトの本数をちょっと余分に運んで来て大きな冷蔵庫に収めているようです。
 その”牛乳屋さん”部屋の左隣は玄関引戸が不釣り合いに格調高く、玄関土間から板の間の豪華さは旅館のようでは無く映画で見る身分ある武家の屋敷のそれであるようです。
 その左隣は8畳ぐらいの客間兼リビングで、縁側にはラタンの安楽椅子が2脚向き合って置いて有ります。障子で仕切られた北側はダイニングキッチンであり、玄関の北側に当るところは風呂やトイレだろうと思います。さらに左隣は6畳ぐらいの部屋は寝室だろうと思います。

 

 

 

 

 政界のドンと呼ばれているオジイさんは痩せて背が高く80才前後のご隠居さんです。いつも着流しで過ごし時たま近くの公園へ散歩しその際には必ず英国製のステッキを持参しますが、そのステッキには化学実験の試験管2本を縦に繋いだようなウイスキーボトルが仕込まれています。かつて市電の路面電車がJR東駅と北駅の間を市内大通りに沿ってW字型に繋いでいて、途中でJRの線路をまたぐ陸橋になって「電車山」と呼ばれていたことから、電車が廃止されて公園となった今もそう呼ばれています。「電車山」の頂上にある東屋のベンチに座り、おもむろにステッキから取り出したウイスキーをチビリと呑み、陽光に照らされた河川や丘陵を眺めて天下を取った時の気分に浸っているのでは無いかと思います。
 オジイさんとオバさんの夫婦はかなり親子以上の年の差で、オバさんはかつて才色兼備で有名だった芸者さんであり当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったオジさんが身請けしたのだそうです。

 牛乳屋のオバさんは”乳酸飲料レディー”に似たオリジナリティーに富んだ服装のいで立ちですが、首から上はまったく別人のような雰囲気なのです。例えようも無いのですが、強いて言えば「お雛様の三人官女」のようなクラシカルな雰囲気なのです。化粧もですが髪型が、あれほどで無いにしてもあんな風なのです。
 毎日牛乳を配っているので日焼けしているのか、芸者さん時代の”白粉焼け”の痕跡なのか兎にも角にも色黒なのです。しかし目鼻立ちが整っていて美人なのです。
 映画やTVで見る”美人”は化粧と照明で作られたものですが、オバさんは本物の「素っぴん美人」なのです。しかし如才なく振る舞うのですが、笑顔を見せたことは無く「済まし顔」しか見せたことしかありません。しかし、牛乳屋のオバさんが暑い日も寒い日も休みも無く、たった一人でなぜ牛乳を配っているのか判りません。しかも時々黒塗りのハイヤーが迎えに来て、黒っぽい地味で高級そうな着物を着てどこかへ出かけて行くのです。まるで映画の一場面を見るかのような光景なのです。

 オバさんの不思議な外出と関係ありそうな訪問があります。選挙が近づきますと官用車や黒塗りのハイヤーで頻繁に訪問者が来ますが、総理大臣や閣僚の経験者の時は警察の警備が厳しくなり遥か遠くの交差点まで警備の警官が立ちます。
 同じ様なことが起こるのは、親分の別宅で賭場が開かれる時です。土間に夏場は2m50ぐらいの氷柱が立ち、冬場には燭台を含めてやはり2m50ぐらいでひと抱えもある太いロウソクを立てます。理由を聞いた事はありませんが、それなりの伝統的な理由があるのだろうと思います。
 そして、石造り門の両側には素木の柱が立ち提灯が煌々と光ります。そこに門を固めて子分たちが立ちます。昔から賭場を開く時の習慣が今に残っているのでしょうが、どちらの警備も余りにもよく似ていて苦笑せずにはいられません。典型的な両者の”前例踏襲”による「事勿れ」は極めて日本人的なのでしょう。

 

 

 

 
 オジイさんの実家は生糸で財を成した豪農で、天明の大飢饉の際に江戸から避難して来た大勢の難民に桑の葉をつき込んだ餅を提供して巨万の富を得たようです。幕末から明治になって東京城に滞在していた明治天皇が全国を行幸する際の宿泊所に指定されたために、敷地内に御殿のような「ご宿泊所」を建てそれを誇りにしたようです。
 貧しい養蚕農家の収益改善のために広域の組合を作りましたが、本格的な官営の製糸工場が稼働したために下請けに甘じることを強いられました。その為に農民の代表として政治活動に専念しオジイさんはその3代目のようです。国政に打って出るようなことは無く、3代とも県議会議長まで務めたとのことです。
 そのオジイさんが驚くようなことをしたのです。家の前の路地をすれ違う時に肩をぶつけそうな程に狭めて庭にしてしまい、火山岩での築山と錦鯉の池にしてしまったのです。

 オジイさんは”近所迷惑”なこととは思わないでしょうし、通行出来なくするのでは無いから文句は無いと思っているのかも知れません。市役所に勤める友人によると、近隣住民から苦情が出なければ市は関知しないとのことです。妙な納得をしてしまいましたが、”カタギさん”には迷惑を掛けないとする「任侠」のドンと「政界」のドンは大きな違いなのだなァ~と思いました。