5連隊は、遭難事故の捜索を6月に終了し、7月に『遭難始末』を発行している。そして7月21日に、まず陸軍省にその4部を進達していた。また、遭難美談は印刷中なので製本次第送るとした。
しかしながら、陸軍省(庶務課長)は第8師団参謀長に対し、遭難始末は「貴師団を経由せざるのみならず規定時日に遅着し特に付録の如きは七月二十三日出版にして仝月二十八日に到着する等出版法に違背とも可相成儀に乄不都合至極……」(申進案)とその不手際に対して意見している。(大日記附録歩兵第五聯隊雪中行軍遭難事件書類 緊急文書共3其3 防衛研究所) 〔乄:して〕
『遭難始末』は238ページから成る(付録、付図、写真等を除く。)。そのうち、行軍計画やその実施(遭難)状況にあてられたページ数は僅か39ページである。残りの多くは救援状況と経理、家族掛などの後方業務に割かれていた。特にどうでもいい救援隊の編成・装備などからなる捜索救援計画が載せられていた。
『遭難始末』の緒言にこんなことが書かれている。
「抑田代越えは青森より三本木平野に通ずる唯一の間路にして我聯隊の為には兵略上最樞要の進出路とす。故に夏期に於いては数回之が通過を試みも未だ冬期に於いて之が難易を試みるの好機を得ざるを遺憾とせり」 〔抑:そもそも 樞要:最も重要〕
しかしながら、遭難事故の2年ほど前に入営した小原伍長(遭難事故時)は、「八甲田は行かないです。三本木、八甲田辺り、夏なんかはあったでしょう。我々の時代にはなかったです」と証言している。歩兵連隊の多くは3年の兵役の兵卒だったことから、1年に兵卒の3分の1が新兵に代わる。つまり、小原証言からすると、遭難事故があった明治35年1月時点で、田代街道(田茂木野~三本木)を行軍した兵卒はひとりもいなかったことになる。
続いて、「昨年第三大隊雪中此の間路を経て三本木に進出するの計画あり。不時の障害の為ついに果たさず」とあるが、三大隊は事故の前年2月下旬に青森市郊外の孫内で坂が上れず村人に援けられるという大失態を演じている。その三大隊がいつ田代街道を行軍しようとしたのか。時期的なことを考察するとありえない。
さらには、「未だ會て吾人の経験に上らざる非常の吹雪と寒気とに窘迫せられ一隊終に八甲田山麓の雪裡に埋没したるは真に千載の恨事なり……」と遭難事故の原因を天災とした。〔吾人:われわれ 窘迫:困ること 雪裡:雪中〕
事故に関し、聯隊長らに都合の悪いことは偽装隠ぺいされ、改ざんされた。結局、事故の事実や真実が消されてしまったのだ。(来週に続く)
