1月29日の東奥日報に、「25日迄に山口大隊長を初め(ママ)百四十餘名は凍死せし為め其他六十余は任意解散せしが……」とある。
この記事は、最初に救出された後藤伍長の証言に基づいて書かれているのだが、実際には、山口少佐は1月31日に救出され、2月2日に青森衛戍病院で亡くなっている。
1月25日未明に演習部隊がパニックを起こした時点からしばらくの間、後藤伍長は演習部隊(第2露営地)から離れていたため、その間における演習部隊の状況を後藤伍長が知るはずもない。
小原元伍長の証言(青森駐屯地、録音テープ)にこうある。
「その朝初めて大隊長も二、三回人事不省になりましたよ。それから大隊長は、これはもうとても今までのような命令を出してね、やるなんて不可能であるから、今度各自欲するとおり原隊の方を確かめて原隊に行ってくれとこういうわけ…」
これだけでは、各自に命令したかのようにとられる。問題は誰に対して命じたかである。
その答えは、小笠原弧酒が小原元伍長から聴取した録音テープ(吹雪の惨劇第二部)にあった。
「ちょうど正午頃、山口大隊長殿も、中隊の欲するところに任せて、聯隊に連絡する所を見つけるようにという命令でありました」
「……それで山口大隊長も涙を振って各中隊の欲するところに……」
つまり、山口少佐は、自分の部下である五中隊長神成大尉、六中隊長興津大尉(死亡)の次級者鈴木少尉、七中隊長(不参加)の次級者大橋中尉、八中隊長倉石大尉の4名に対して、各個に進めと命じたのである。
未明のパニックもあったためか、一部の下士卒は大隊長の各中隊長に示した命令を勝手に解釈し、自らが思った方向に進んだ。
12時頃、倉石大尉ら(山口少佐含む)演習部隊主力は第2露営地を出発し、馬立場方向に向かった。
その後に、後藤伍長は第2露営地に戻り、その地に残っていた下士卒から任意解散という誤った情報を得たものと考えられる。
伊藤中尉は、山口少佐が演習中隊を指揮したこと等を強く批判している。
だが、任意解散については、次のように話している。
「山口大隊長が各兵士に自由行動を命じたと世間でいっているが、決して左様な命令は出しません」
つまり、任意解散はなかったのである。
下士卒の勝手な解釈が後藤伍長に伝わり、その後藤伍長の証言が新聞記事となり、それが事実だとされてしまったのである。
(来週に続く)