山口少佐、倉石大尉らは、大滝にいた。そこでの出来事を小原伍長が話している。
「常識を失ったこともありますよ、私の中隊長なんか、兵隊の銃剣もってきて、『どうだお前、これから筏でいって連隊へ報告するから、筏作るんじゃねぇがぁッ』、そんな調子だったんですよ。だから中隊の見習士官が川に入っていって報告するというわけだったんですね……今泉見習士官が川に入ったんですね……中隊長の前にいって報告せっていうんで、倉石さんが万歳の声ですね。そうして川に入って流されていったんですね。川に入って流れたら暇もなく死んだでしょう……」
「大隊長は私の前で寝ておったんです。『どッ、どうするッ』、『夕べ佐藤准尉とそれから下士官と四人で川に入って、一刻も早くこの状態を連隊に報告するが為に約束したんです。私はこれから飛び込みます』、大隊長『待てよッ、そんな馬鹿なまね待てッ』ったんです。『夕べ一緒にいたけど、佐藤准尉なる兵隊、そこにいて死んでるじゃないかッ』、んだんだねぇ、こりゃなるほど、川向うにちゃんと石造のように死んでいるでしょ……」
大滝6日目となる1月31日、大滝に留まっていた一行は動き出す。後年、伊藤元中尉が口演で話している。
「……何日かの夢から覚めてみると、お天気がよい日であった。山をみると烏が二、三羽いるのを見たから、倉石大尉と相談して烏という鳥は人里の近所に住む鳥であるから、付近に人家か、炭小屋があるに違いあるまい。このままここにいても死ぬのだ。勇を鼓して山の上に登ってみようではないかと相談をかけたら賛成してくれたので、残っている兵士に命じたら誰も動かない。仕方ないから屈強な兵士二名を無理強いにつれ、四人が急な山をよじ登ることにした。疲れない時でさえへ容易でないのに一週間以上、食わず飲まずでいたので、非常に苦心して、一歩誤れば大滝の滝つぼへ落ちる危険にさらされながら、長い時間かかってよじ登った。登りつめると烏がいる所まで、もう一つの峰がある。所が二羽の烏が三羽になり四羽になり、それが三十羽に増え私達の方へ進んでくるようである。あとでよく見ると、それが皆人間であった」(郷土誌「うとう」第十三号)
捜索隊は、大滝平の崖に人がいるのを発見し、救出に向かったが、斜面が急でしかも深く、前進は難航した。
「側に寄って見ると二人は将校で二人は兵士でしたが……倉石さんは一番元気で『俺たちは是迄出て来たが此の谷の下に大隊長も居れるから其方へ早く行って呉れろ』と……大隊長は兵士の外套を二枚召して……藁靴はソックイ細工の様に雪の中に喰い付いて仕舞ってなかなか取れない、軍医が来て靴を脱がそうとしても靴は鉄のようになって鋏刃などで切離すことが出来ず遂に鋸で切離しました……大隊長は何も仰いませんモッコに入れて引き上げる時に酷くさわると腕が痛いと仰ったようです……」(二月四日、報知新聞「山口少佐を救いし人夫の実話」から」
陸軍大臣が派遣した田村少佐は、救出直後の倉石大尉らと話をしている。
「倉石大尉、伊藤中尉は元気衰えず快活に談話せり。其言に依れば、二十三日は大隊は無事露営に就きしも、二十四日には已に行軍中に約四、五十名、その夜に約三十名許り、二十五日には四十名許り、二十六日には四、五十名の凍死者を生じ、二十六日の如きは各個に運動し殆ど集団せる者なし。只自己と共に行進せしものは十四、五名にして、内九名のみ岩陰に遁し風雪を凌ぎ辛うじて今日迄生存せりと」 (歩兵第五聯隊雪中行軍遭難事件書類、大臣報告)
ここで救出されたのは、山口少佐、倉石大尉、伊藤中尉、小原伍長、高橋伍長、山本1等卒、及川1等卒、紺野2等卒、後藤2等卒の9名である。
最初に救出された倉石大尉ら4人は哨所まで移動する。そのときの状況を伊藤元中尉が話している。
「他の三人は兵に背負われたが、私は比較的元気であったから拒んで救護所まで歩いて行ったが、疲れのため遅く、ために進められて背負わされて第七哨所に行った」
(来週に続く)