(長谷川貞三特務曹長)
1月25日、
鳴沢の第2露営地を出発した演習部隊は前嶽を登っていたが、途中でその経路の誤りに気づき第2露営地に戻る。
第2露営地で神成大尉が点呼をとったところ、田中見習士官、長谷川特務曹長ら十数名が行方不明となっていた。
行方不明となっていた者の多くは、鳴沢の第二露営地からさらに北側へ下った鳴沢にいたのだった。
長谷川特務曹長は、鳴沢を北方に下る途中において、次々と兵卒を拾った。その数は計8名である。
この一行は、鳴沢を下り、途中から斜面がなだらかな東方向に進む。
そして、大崩沢で炭小屋を発見し、その中にあった炭俵を外へ出して小屋に避難した。
小屋にいたのは、長谷川特務曹長、阿部壽松1等卒、佐々木正教2等卒、小野寺佐平2等卒の4名だった。
長谷川特務曹長が掌握した8名のうちの1名は考えが違うとして別方向に進み、4名は遅れてその姿は見えなくなってしまったのだった。
長谷川特務曹長は、所持していたマッチで笹に火をつけて炭をおこした。
雪をとかして飲み、餅を焼いて食べた。
翌26日、炭小屋を出て、筒井の営所に帰ろうとしたが、兵卒の歩く速度が遅いために、長谷川特務曹長は炭小屋に戻り、ここに留まり救助を待つこととした。
(村松文哉伍長)
1月25日、
村松伍長は、第2露営地において人事不省となった大坪平市郎伍長を救護していたらしい。
その間に倉石大尉ら演習部隊主力は第2露営地を出発していた。結局、大坪伍長は蘇生しなかった。
松村伍長は倉石大尉ら主力が進んだ方向を探したがその姿を見つけることはできなかったようだ。
村松伍長は青森と思わしき方向を定め、古舘要吉1等卒と共に鳴沢を下った。
「二十六日 未明目覚めてよりまた前日の如く溪に沿いに高地を降りる」と村松伍長は陳述している。(だが、実際には駒込川を上流に進んでいた。)
14時半頃、田代元湯の小屋を見つけ、そこに避難した。
「二十七日 朝小屋より三十米突計の所に湯の噴出するを発見し、古舘と共に之を飲み再び小屋に帰るや古舘卒倒す……救護せしも終に其効なし」
30日以降、村松伍長は歩行することも出来なくなっていた。
2月2日、
「佐藤中尉の捜索隊は田代に向って前進し、大崩沢の炭焼き小屋より長谷川特務曹長以下四名の生存者を発見し次いで元湯に於いて生存者村松文哉他に死体一を発見す」(雪中行軍遭難事件書類報告の部 共3其2)
以降、生存者はなかった。(来週に続く)