『明治35年大日記附録』(防衛省防衛研究所)の「雪中行軍」をみると、毎日の捜索状況などが陸軍大臣に報告されていたことがわかる。その文書から、当時の様子が浮かび上がり、事実や真実を知ることができる。そのほんの一部をあげてみる。

 

○ 劣悪な環境

 

「二月五日 雪天烈風

天候の不良なること昨日に下らず……高橋、本田両哨所は昨夜又々陥落し、終夜安眠する能わず。凍傷感冒等の患者発生し、計百二十有余名を後送す……」

 

「二月六日 雪天烈風

……捜索隊は到底本来の任務に従事すること能わず……炊爨場も忽ち埋没せらるると寒気酷烈の為僅かに炊爨せし飯も忽ち氷結して分配する能わざるとの故を以って、多くは現品を給与し各自飯盒を以って炊爨せざるを得ず……」 

 

○ 辨開凧次郎等の活躍

 

「二月十四日 午前風雪 午後雪

……辨開等一行の捜索班は、昨日捜索を終りし地点より駒込川の下流五百米突の間を捜索し死体四個を発見せり。此の地区は最も険峻常人殆んど跋渉し得ざる所にして、此の捜索班の嚮導となりし人夫は最早前進すること能わずと云いしも、辨開等一行は猛然と勇を奮い先頭せしかば、一同之に力を得前進し其到底歩行す可からざる絶壁に達するや彼らは身を挺して河中に躍り入れり。氷水腰を没するも尚前進を止めず遂に四個の死体を発見するに至り。平素狩猟の為此の付近を跋渉する人夫等も一同舌を捲いて歎賞せり……」

 

○ 橇(行李)の一部は鳴沢を登り、宿営地に到達していた

「三月六日 微雪軟風

鳴沢哨所兵は第一露営地に於いて左の物品を捜索し得たり 

橇四個 笟三個 釜の鉄片一個……」

 

○ 山口少佐は軍刀を携行、中野中尉率いる下士候補生(長期伍長)は賽の河原まで演習部隊主力についていた

「三月十九日 晴 強風

……賽ノ河原(中野中尉発見の場所付近)に於いて故大隊長の軍刀一、及び銃剣(鞘なし)一を……」

 

 5月28日、行方不明者の最後となる遺体が発見された。

以降は、捜索隊が縮小され、引き続き未回収となっている武器装具の捜索となる。(来週に続く)