昨日、青森中央学院大学の公開講座において、「八甲田山 消された真実」と題して講義を行いました。
基本的には拙著をベースにパワーポイントを利用してお話をいたしました。
最後に一般の受講者から、「後藤惣助1等卒が31連隊に遭遇したと証言しているがそうしたことを書いていないのはどうしてなのか」旨質問を受けました。私の回答は、後藤惣助2等卒(遭難当時)は小原伍長と行動していたと認識していたので、考えられない旨を話したと思います。
質問者は、後藤惣助1等卒が証言している資料がある旨言われましたので、私は見ていませんと回答いたしました。
本日、私の認識が間違っていたのか確認してみました。
倉石大尉の陳述書(明治35年2月5日付、立見師団長が陸軍大臣に報告)にはこうあります。
「1月27日 ……今泉見習士官は一名の下士官と共に……流れに入り行衛不明となれり」
「1月28日 ……佐藤特務曹長他下士卒五六名は溪を下り……再び帰来せり」
「1月29日 余等を去る十米突許に在る兵卒の一団中より一名の兵卒来て余等の団に入れり」
「1月30日 小原伍長、後藤惣助来り五人の一団となれり」
当初から倉石大尉らと行動をともにしていた小原元伍長はこう証言しています。
「私等と一緒に生きた後藤惣助という兵隊はですね、宮城県出身の准尉の人が……川の中に飛び込んで報告するというので、すっかりと服を脱いでですね、そいで入ったんです。その服を着ておったんですよ」
(小原伍長)「夕べ佐藤准尉とそれから下士官と四人で川に入って一刻を早くこの状態を連隊に報告するために約束したんです。私はこれから飛び込みます」
(山口少佐)「待てよッ、そんな馬鹿なまね待て、夕べ一緒にいたけど、佐藤准尉なる兵隊、そこにいで死んでいるじゃないか」
川に入ったとする証言には、今泉見習士官らと佐藤特務曹長らの2件しかない。だとすると、後藤2等卒が准尉(特務曹長)の服を着たのは28日夜の可能性が一番高い。
ところで、弘前31連隊が大滝平付近を通過した日時は、28日18時頃である。
後藤2等卒は、当初から倉石大尉(小原伍長)らと行動をともにしていたものと考えられ、弘前31連隊を見てから崖を下って倉石大尉らと合流したとは時間的に考えられない。それにどうして、倉石大尉らが崖下にいることがわかったのか疑問が残る。
この件に関しては、拙著に記載がなくて妥当だったと考えます。