前回、公開講座で「八甲田山 消された真実」の講義後、「後藤惣助1等卒が31連隊に遭遇したと証言しているがそうしたことを書いていないのはどうしてなのか」と質問を受けたこと、私は考えられない旨回答したこと、それらの結論として、「後藤2等卒は、当初から倉石大尉(小原伍長)らと行動をともにしていたものと考えられ、弘前31連隊を見てから崖を下って倉石大尉らと合流したとは時間的に考えられない。それにどうして、倉石大尉らが崖下にいることがわかったのか疑問が残る。この件に関しては、拙著に記載がなくて妥当だったと考えます」と書いた。
それ以降も何となくモヤモヤしていた。他に何かあったはず……と。情けない話だが、その決定的な裏付けを拙著『生かされなかった八甲田山の悲劇』にしっかり書いていたのだった。
昭和29(1954)年8月、後藤元1等卒(遭難当時は2等卒)は幸畑の陸軍墓地、馬立場の記念碑に訪れている。そして新聞の取材に当時の様子をこう語っている。
「後藤伍長の銅像のあるところまできたのだが二十六日……大滝に下りて川に沿って青森に下ろうと命令、そこには二十七、二十八、二十九、三十日までいて、もっぱら沢の水をのんで生きていた」(昭和29年8月17日、東奥日報)
後藤元1等卒の証言からすると、後藤2等卒は、26日から30日に倉石大尉らと崖を登るまで大滝にいたことになる。
吹雪の中、大滝にいて、崖上300メートルにある大滝平が見えるはずもない。しかもそこを28日18時頃に通過した福島大尉率いる教育隊とどうすれば遭遇できるのだろう。
明日は、福島大尉率いる教育隊の田代越えを書く予定です。