(間山伍長の日記) 「午后二時三十分増澤村に到着せり、澤口徳右エ門方に舎営す。此の夜大深内役場より酒を待遇せり、尚お夜具迄でも処々より人夫を以て運搬せしめ……村長種々尽力して少しも不便かんぜざらしめたり」

 「二十七日午前六時半増沢より田代を指して発進せる……午前十時二股に達す之れより『ヲナガ平』と云う処にして急峻急坂……午后一時十分田代山脈に於いて昼食を喫し……」

 田代山脈とはおそらく大中台(標高715.3)のことだろう。ここを下ると田代平となる。

 

 大深内村民七名が依頼された道案内(嚮導)は、増沢から田代新湯までで日帰りの予定だった。

昭和5年にその嚮導の生存者による証言からまとめられたものが、『八甲田山麓雪中行軍秘話』である。

「雪を蹴りながら進むこと二里余でようやく箒場(俗称)に辿り着いた。……風雪顔面に吹き付け骨髄に達するような痛さ。顔は少しも上げることができず前方の人の所在さえわからない。吾等七名は道案内だからと云うので終始先頭に立たせられたが雪をこぎ進む事は一町と続かず、交互に先頭に立ち顔を伏せながらひたすら吹雪の方向へと進み少しも休めず」(1町は約0.1キロ)

 嚮導は体力を一番消耗するラッセルをずっとさせられていた。嚮導が七名もいたことに疑問があったのだが、そういうことだったのかと納得した。

 

「夜十一時頃ようやく箒場より凡そ一里の地点に達した時、突然大尉は行軍中止を命じた。……兵士等に命じて雪を掘り穴をあけ雪の防風堤を作らせ焚火をしようとした。吾等七名もその恩恵に浴せるものと喜んだのも束の間以外にも隊長が命じていうには『是より新湯に行き湯主小山内文次郎を連れて来い。』と」

「一同仕方なく出発しようとしたら大尉は何と思ったであろうか『携行品は全部置け、但し七名の中二名は此処におり五名で使いを果すように』との命令になお驚いたが止むを得ず出発した」

 民間人である道案内に、命令するのは常軌を逸している。そして、携行品(弁当)を残置させ、二名を残させたのは逃げられないようにするためであり、また逃げてもいいように案内を二名確保したということなのだろう。(来週に続く)