(5連隊が23日に露営した場所(第1露営地)から青森側(北西)300メートル付近。)

「やがて途中の鳴沢から数町て前の小高い丘で軍銃の逆に立っているのをみた。大尉が渋い顔をしていった『どんな馬鹿が銃を捨てたのか』と憤慨のようす。吾等に命じてその銃を担がせて進むと又も1丁発見した。これも担がせて鳴沢の峡をよじ登り小屋より北方へおよそ十五、六町(今の銅像の地点)に達した時は午後の四時頃と思われる」

馬立場の北側斜面を下りている途中。

「ふと黒色の物を発見し近寄って見ると凍死兵!是が五連隊雪中行軍遭難兵であった、(後刻判明)……しかし大尉の『手を触るるべからず』の命に空しく同情しつつ山を下ること約一、二町、又数個の凍死体を目撃し同情の念を投げつつ下り続けた」

 間山日記にも30年式歩兵銃二丁、兵士2名の凍死体を発見したことが書かれている。また、東海記者の記事には、

「兵士死屍二個を発見せり……然れども死屍は如何ともすべからず予は即ち傍に棄てありし軍銃二丁を肩にして山を下る」(1月30日、東奥日報)とされている。

 記事は銃と死屍の発見状況が他の二人とは異なっており、また、自らが銃を担いだとしている。なぜ、発見状況をそうしたのかよくわからないが、銃を担いだのは大滝平付近からだと考えられる。

 

(馬立場~賽ノ河原と進み、大滝平に到着したのは18時頃。)

「前方より数知れぬ人影や提灯が横隊をなし前進してくるのを微かに認めた……早くも提灯の列は縦隊と変わり目前に迫ってきた……不思議なことに今まさに突き当たると思ったときに右に折れ、忽然として灯火が消え吾々の周りはまた元の暗闇……」

もしこれが、遠くに見える列車だとしたら、20時頃のことなのだろうか。

「微かな汽船のドラの音に正常な意識をとり戻した。その方向は遥に右方から聞こえる。目をこらし全身の神経を集中してその方向を見ると電灯らしき光が点々と見えているではないか。青森であるとを直感し初めて夢から醒めた心地であった」

 

「位置を知り方向を定めほっと安心したのも束の間大尉は以外にも『運賃なり』といつの間に準備したのか金弐円づつを七名に渡し口を一文字に結んでいった

過去二日間のことは絶対口外すべからず』と唯一言。

無情にも吾等を置き去りして隊員を引率し何処ともなく暗闇の中を出発して行った。同伴をすがることも出来ず吾々はただぼう然として失神同様となってしまった」

 青森の灯りが見えたことで、嚮導は用済みとなってしまった。あるいは、5連隊の遭難を察知し、下にいるだろう捜索部隊に嚮導を付けていたことを知られたくなかったのかもしれない。(来週に続く)

 

1町:約100メートル

弐円:2円(参考 明治33年の除雪の日当が34銭)