(東奥日報、明治35年1月30日、東海記者の記事)

「兵士死屍二個を発見せり……然れども死屍は如何ともすべからず予は即ち傍に棄てありし軍銃二丁を肩にして山を下る一行は幸畑に出つべき目的を以て進行したるも道を失して四方を徘徊し田代附近の樹木のある所に休憩し餅をもって晩餐に代ゆ此の日三食餅のみを以てす夫れより進んで午前二時頃田茂木野に達し……」

 泉舘伍長の手記「八甲ッ嶽の思ひ出」にも、道を誤ったことが書かれている。

福島大尉嚮導を置き去りにしたため、31連隊の教育隊は幸畑への道に迷ってしまったのだった。

もし、福島大尉率いる教育隊が増沢から嚮導なしに田代街道を進んでいたら、間違いなく遭難していただろう。

 

 〈田茂木野の民家は戸々何れも兵士の宿泊しある如く村端より第四件目の家の門口に筆太々と「死體収容所」と表札を掲げあり……我等の到着を知りて指揮官福嶋大尉を尋ぬる傳令来り、大尉を案内して捜索司令木村少佐の宿所に伴いその他の将兵は数名ずつ田茂木野村の戸々に武装の儘休憩することとなった〉(『八甲ッ嶽の思ひ出』)

 

(明治三十五年歩兵第五連隊雪中行軍遭難事件書類 報告の部 防衛研究所)

 在田茂木野木村少佐報告(二十九日朝ノ報告)

「唯今歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊司令福嶋大尉来訪該隊行軍の状況に付左の件々を承知せり ……途中田代より田茂木野に至る通路上の頂界線に於いて三十三式歩兵銃の雪中に立ちあるを見之を収容せり此時午後一時なりしが約千米突を進むや更に一挺を発見せり既にして前進午後四時頃八甲田山の東南麓を通過するとき通路の左右に各一人の兵卒凍死せるを見る……内一名は確かに喇叭手なりしが大尉は其等の現象に對して理由を発見し得ざりしと……小銃二挺は当地に於いて受領致候」

 

 平成16年にこの文書が発見されるまで、五連隊と三十一連隊の遭遇はなかったとする説が幅を利かせていた。複数の目撃証言、東海記者の新聞記事があったにもかかわらずである。何をかいわんやだ。(来週に続く)