(1月28日21時3分、友安旅団長から陸軍大臣への電報)

「命の通り目下準備し十八ヶ所の哨所を置き捜索するも……又心配なるは歩兵第三十一聯隊の一部被害地を通り此地に着く筈なるも未だ着かず多分隊長の訓示もあれば他に進路を取りしならん」

 

1月29日

 (泉舘伍長『八ッ甲嶽の思ひ出』)

〈田茂木野の厚き情に温まり元気を恢復し払暁を待って青森市に向ふ。途中會する人毎に「生きて来た、生きて来た」と云ひ中には家を飛び出してまで生きて来たと云ひ迎へらるるも餘り好い心地ではなかった。青森市に至り塩屋、かぎ屋、(ともに青森市第一流旅館)の二旅館に分宿して休養す〉

 

 友安旅団長は、28日に五連隊を訪問し、事故状況を把握していた。宿泊は青森駅前のかぎや旅館だった。

翌29日7時頃、福島大尉率いる教育隊がその旅館の前に到着する。将校と見習士官はかぎや旅館、下士卒は中島旅館で休んだ。

 友安旅団長は五連隊で陸軍大臣に、「歩兵三十一聯隊無事今着いた」と発信している。

 

 翌30日、福島大尉は、当初の予定通り北津軽郡を経由する行軍を続けようとしたが、友安旅団長に諭されまっすぐ帰隊することになる。

「友安旅団長は一隊に語して曰く、第五聯隊の惨状を見る今日なれば一隊若し怪我等あらんには申し訳なからん。諸氏等は酷寒〇絶壁峻険なる八甲田山を通過したる憤発と其気力に依りて見れば……今日は最早予定通りを実行するには及ばずと切に之を止む。大尉意気は尤も盛にして猶お予定通りの梵珠諸山の進行を請う。去れども許されざるを以て遺憾ながら青森より浪岡を指して行進したるなりと」(2月4日、東奥日報)

 予定を中止して帰隊しろと諭した友安旅団長、予定通り行軍を続けるとした福島大尉。この二人の衝突が、後々の転任につながる。(来週に続く)