拙著『八甲田山 消された真実』で事故原因を「訓練不足」としています。これまでそう断言したものを私は知りません。
「遭難を決定づけたのは、猛吹雪で進む方向さえ分からないのに、部隊を前進させた山口少佐の判断だった。冬山に対する認識不足、経験不足である。はっきりいって、二大隊は田代で訓練できる練度になかった。つまり、事故の原因は二大隊の訓練不足にあったのである」
これらのことは、生存者の証言、本件事故の記録、資料等と訓練をさまざま計画してきた自衛官としての経験上から結論づけています。
トムラウシ山遭難事故調査報告(平成22年3月1日)の「遭難事故要因の抽出と考察」に、「現場におけるガイドの判断ミス」、「ガイド・スタッフの能力に関する問題」、「一部の人は体力、経験ともに不足していた」などの記載が見られることからしても、私の断定に誤りはないと執筆していました。
『八甲田山 消された真実』が発行されたのは2018年1月で、2作目の『生かされなかった八甲田山の悲劇』が概成したのが2019年2月でした。2作目が概成しても、完成まではより強い証拠が欲しくなるので、ネットや図書館などでいろいろ調べることになります。
その2月14日に、国会図書館において、倉石大尉が『偕行社記事』で「下士卒凍傷予防の心得」という記事を投稿していたのを見つけました。そのなかに、遭難事故の原因も書かれていたのです。
この投稿記事が掲載されたのは明治38年1月でした。5連隊の遭難事故は明治35年1月なので、ちょうど3年後となります。日露戦争が始まったのが明治37年2月で、終わったのが翌年の9月でした。つまり、倉石大尉は日露戦争中に記事を書いて投稿したのです。
その背景を教えてくれるのが、青森市出身の横山武正少尉の日誌です。横山少尉は新任の将校で、所属は5連隊の1大隊2中隊の小隊長です。先任の小隊長は後藤伍長を救出した三神中尉で、隣の中隊である3中隊長は倉石大尉です。
5連隊は、明治37年10月1日に大阪の港を出発し、10月7日に大連近くの柳樹屯(リュウジュトン)に上陸します。10月11日には遼陽(リョウヨウ)に到着し、烟台(エンダイ)の腰接子(ヨウセッシ)に集結します。第8師団(5連隊)は大山巌元帥率いる満州軍の予備として1月上旬までの約3カ月、この腰接子に宿営することになります。
この集結間において、5連隊は警備や教育訓練などを実施しています。そうしたなかで、倉石大尉は連隊の下士卒に対して凍傷予防の教育を実施したのです。その教育で、倉石大尉は遭難事故の原因を述べていますし、風雪に遭遇した場合の対策も述べているのです。この教育をまとめたものが倉石大尉の記事ということになります。
倉石大尉は、明治38年1月27日、蘇麻堡(黒溝台の会戦)において戦死しています。この記事はその3日後に発行されました。倉石大尉の遺言といってもいいのではないかと思われます。
2作目の『生かされなかった八甲田山の悲劇』に、倉石大尉の記事にあった遭難事故原因等を記載しておりますので、ぜひご購読願います。(来週に続く)