達人と言う理想 | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

真の達人とは、どんな存在なんだろう?


おれは、長年武道を続けているが、まだそれについての明確な答は得られない。


これまでに確かに強い武道家や格闘家と遭遇する事はあったが達人と言うのは、また別の次元の話のような気がする。


強いて言えば師匠公山先生が、おれにとっては達人と呼べる域の存在だったと言えそうだ。



中国の逸話にこんな話がある。


自分は、この世で一番鼠を捕るのが上手いと自慢している若い猫が居た。

その猫にある猫が、隣の町にお前よりもっと鼠を捕るのが上手い猫が居ると言った。

「よし それならそいつと勝負してやる」と若い猫は、隣町に出掛けた。


若い猫は、驚いた。

隣町の猫は、一度に数匹の鼠を瞬く間に捕まえる。


これは、隣町の猫には敵わないと思った若い猫は、隣町の猫に弟子にしてくれと頼んだ。


ところが、隣町の猫は「おれよりもっと凄い猫がある町に住んでいるからそいつに会ってみろ」と凄い猫の居る町を教えてくれた。


早速若い猫は、その町に行って凄い猫を探した。

しかし数日探し回ってもそれ程強そうな猫は居ない。

ただ何故かこの町には、得体の知れない違和感がある。


凄い猫に会う事を諦めかけた時 自分の直ぐ傍で老猫が寝そべっているのに気付いた。


若い猫が、事情を話し凄い猫の居場所を尋ねたが老猫は知らないと言う。


それにしてもこの老猫は、いつの間に自分の直ぐ傍で寝ていたのだ?

そう思うと同時に老猫から異様な気配を感じた。


この初めて経験する息苦しいまでの威圧感と恐怖心で若い猫は、この老猫が自分の探していた凄い猫だと分かった。


この老猫は、その存在だけでこの町に鼠が寄り付けない気を放っていた。


この町の違和感とは、この町には鼠の気配が全く無い事だった。


若い猫は、自分の未熟さを実感して自分の町に帰って行った。



おれは、まだ八光流を知らなかった頃に何かの本でその話を読んだ。


その時は「上には上がある」と言う戒めの話だと思った。


だが、八光流の師範としてこの話を考えると「挑まず、逆らわず、傷付けず」と言う八光流のモットーには、単に技の極意だけを示す物じゃなく達人たる武道家の理想をも秘めているように思える。


どうせ武道を修業するなら達人を志すべきだ。

しかし達人と言われる武道家で自分を達人と思っている者はいるのか?


日々修業を続けて努力を積み重ねている内に気が付けば達人の域に至っている。

そんな所かも知れない。



そしておれも含めて武道家って奴は、掴み所の無い達人と言う理想の為に敢えて苦難の修業を続けて行く物好きだとおれは思っている。