黒犬伝 その10 (後編) | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

アクの戦法は、極限まで低く構えて上から襲撃して来た相手の喉首を下から咬む。


しかしこのゲンと言う犬は、アクの手前でピタリと止まった。 


こいつは、かなりヤバい相手だ。


この二匹は、もう止められないとおれは判断して素早くアクのリードを放してその場を離れた。


その直後 物凄い闘いが始まった。


お互い肉眼では捉えられない早さで咬み合い上になり下になり土煙を巻き上げて闘っている。


突然アクの動きが鈍った。アクの前脚にゲンのリードが絡まっている。


それに気付いたゲンは、リードが絡まって自由が利かないアクの前脚を狙った。


おれは、アクの初めての敗北だと思った。


ところが、ゲンの牙がアクの前脚に届いた瞬間 アクは、奇妙な形で体を捻りながらゲンの体に体当りを食らわせると咬まれていた状態から逃れた。

ゲンの口にはリードだけが残った。


アクは体当りで浮き上がったゲンの後ろ脚を咬みに行った。


ゲンは、咄嗟に飛びのいたのでアクの牙は浅くしか掛からなかつた。


「今だ!その犬のリードを持って遠くに離れてくれ!」おれは、しゃがみ込んで震えているお嬢様に言いながらアクの首輪を両手で掴んで押さえ付けてアクの動きを止めた。


お嬢様は、おれの命令通りゲンのリードを持ってヨロヨロと走った。


そしてお嬢様は「すみませんでした」と謝りつつゲンを連れて去って行った。


ゲンは、後ろ脚を引きずりながら歩いていた。


「相打ちか 危なかったな」とおれはアクに言った。


アクは、振り向きもせず片方の前脚を浮かせるように歩いていた。


その後 ゲンとアクは、2回闘って2回共アクがゲンを追い払う形で終わった。


ゲンが唸りながらゆっくり歩いて退散して行くのをアクは、深追いせず見逃す。

アクにしては、非常に珍しい勝負の着け方だった。


アクとゲンの戦闘能力は、ほぼ互角だが気迫でアクが勝っていた。


それにしてもリードが絡まるアクシデントがあったにせよアクと引き分けた唯一の犬ゲンとアクの闘いは、後に武道家になったおれにとって見ておいて良かった勝負だと言えるだろう。



昔 悪い神が熊に化けて人々を襲った。

それを見兼ねた良い神が怒り犬に化けて熊を倒した。

北海道の先住民アイヌの神話にそんな話がある。