歩行器(後編) | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

この婆さんの歩行器は、コの字に組まれた軽金属のパイプに4本脚が付いていて患者はコの字の枠を掴んで杖代わりにして移動する。

1年ぶりに会った独居婆さんは、一回り小さくなっていた。

彼女は、おれと知り合う10年位前に股関節の手術の失敗で片脚が不自由だった。
そこへ今回の2度の骨折のダメージは大きく歩行器を使わなければ歩けなくなった。

久しぶりの治療は、歩行器の使用による腕、肩、頸の使い痛みの治療だった。

施術後婆さんは「何だか身体が軽くなった感じです」と嬉しそうに言った。

だが、おれは婆さんが移動する度にガタンッ ガタンッと音を立てる歩行器を暗い目で見詰めていた。

この患者は、どんなリハビリを受けたんだろう。或いは、おれなら…。
だが今更どうしようもない。

そんな事を考えて茫然としていると婆さんが話し掛けて来た。
「先生 元気出して頑張って下さいよ 私達患者は、みんな頼りにしてるんだからね」

彼女は、おれの沈んだ心に気付いたのかそんな事を言った。

おれは,ドシッと背中を叩かれたように我に帰った。

そうだ そうだった 何を考えてたんだおれは。
おれは、まだ今回この患者の治療を始めたばかりじゃないか。

治療を終えたおれは、ジャケットの袖に腕を通しながら言った。
「次回から脚と腰も治療してみましょう まだ諦めるのは早そうだ」

「ありがとう お願いします」と婆さんは歩行器に掴まったまま頭を下げた。

おれは「礼を言うのは、おれの方だ」と小さな声で呟いて婆さんの家を出た。

歩き出したおれの耳には、ガタンッ ガタンッと家の中で歩いている婆さんの歩行器の音が微かに聞こえていた。