山道で待っていた(後編) | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

そいつは、今まで見た事もないような巨大な鹿だった。

そいつは、まるでおれの来るのを待っていたかのように全く逃げようとせず道端に立っておれの車を見詰めていた。

おれは、山道には慣れているので野生の鹿は何度も見た事がある。
だが、そいつは大きさも全身から発する気配も魔物のような鹿だった。大きさは
普通の牡鹿より二回り位大きく筋骨隆々で張り出した角は、強さの象徴のように立派だ。そしてその体毛は全体に濃い焦げ茶色で一見黒に見える。

車が通り過ぎる時そいつは、グイッと頭を下げて運転席を覗き込んだ。

その時 おれと奴の目が合った。その牡鹿は、優しく何かを語るような眼差しでおれを見ている。
おれは、その目を見た時何故か言い知れぬ懐かしさを覚えた。

そいつは、おれの車を見送ると杉林の中に姿を消した。


山を越え15分位走って目的のクレーマー親父の家に着いた。

クレーマー親父の治療中おれは、親父から3年前まで治療に来ていたある患者が数日前に亡くなった事を知らされた。
その患者は、クレーマー親父の紹介で神戸からおれの治療を受けに来ていた。
優しく心の広い人だったが肺に難病を抱えていた。

彼は、数年の間 月に1回おれの治療室に通っていたが高齢になった事で神戸から来るのが無理になった。

そして来れなくなって3年後急死した。
死因を聞いてもクレーマー親父は、よく分からないと言う。

「残念です」とだけ言ったおれの胸中に彼の思い出が甦って来た。そして彼の優しい眼差しを思い出した時 おれは、その日見た大鹿の眼差しを思い出した。
おれの頭の中で彼と大鹿の眼差しが完全に合致した。

クレーマー親父の治療を終え帰路に着いたおれは、再び大鹿に遭遇した場所に差し掛かった。

車を停車して辺りを見渡したが大鹿は、居なかった。
おれは、車を降りて「別れの挨拶に来てくれたんですね」と杉林に向かって小さな声で話し掛けてその場に佇んでいた。