黒犬伝 その3(後編) | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

おれは、怪我をしていない左手でアクを殴ろうとしたが拳は空を切った。
奴は、しゃがんでいるおれの左側をすり抜けようとした。
その動きをおれは、見切っていた。
おれのこんな時の勘は、アクに引けを取らない。
おれは、目前の壁を蹴りながら後ろに倒れ込んで逃げる犬の脚を掴んだ。その掴んだ手を咬もうとする奴の首根っこを押さえ仰向けにして顔を拳で何度か殴った。

殴りながらおれの脳裏にアクが嬉しそうに飛びついてくる時の顔や投げたボールを全速力で追い掛けている姿が浮かんで来る。

おれの胸は、やるせなく痛んだ。
だが、人間と付き合って行く為のルールを叩き込まないと こいつを殺処分しなければならない事態になりかねない。

やがてアクの目から反抗の光が消えた。おれは、心の中で涙を流していた。

その日の夕方 おれは、アクを散歩に連れ出した。
この犬が、おれについて来るかどうかは一つの賭けだった。

勿論手加減はあったが普通あれだけ殴られたらおれに対する恐怖心でおれに寄り付かなく事が想定された。

ところがおれの「散歩行くぞ」と言う呼び掛けにアクは、何事も無かったように付いて来た。

この北海道犬の子犬は、思っていたより遥かにタフだった。

散歩の途中夕焼けに染まる公園のベンチにおれとアクは座っていた。
おれが「おれ達 仲良くしような」と言うとあいつは、前を向いたまま片方の耳だけこちらに傾けた。

その後アクは、おれに対して絶対に牙を剥く事は無かった。
おれもアクを拳で殴る事は無かった。


昔 悪い神が熊に化けて人々を襲った。それを見兼ねた良い神が怒り犬に化けて熊を倒した。
北海道の先住民アイヌの神話にそんな話がある。