「ソフィーの選択」~最も見たくない映画 | 話題満載 池ちゃんの『破常識』で行こう!

話題満載 池ちゃんの『破常識』で行こう!

こんにちは。このブログは、物理に数学・心理学。クラシック音楽や映画に小説・シヨート・ショート、果てはお笑いまで、色々な話題を取り上げています。新旧の無い『本』の様なブログを目指しておりますので、古い記事でもコメントをお待ちしております♪

「ソフィーの選択」(1982年)。この映画は当時劇場で観ました。
映画の題名「選択」。その意味が重くて重くて。
ナチスのユダヤ虐待を扱った映画なのですが、他のホロコーストものなどとはちょっと違い、負の歴史をなぞった問題提起ではなく、心の奥にグサリと突き刺さります。
主演は若き「メリル・ストリープ」美しいです。
私はこの演技で、当時彼女をナンバーワン女優と決めてしまいました。まあこの作品でアカデミー賞の主演女優賞を獲ったのですから当然でしょうけど。



<あらすじ>
「ネイサン」はユダヤ人の青年。ナチの犯罪が許せずに関係する本を沢山持っていました。そんな彼が住むアパートの部屋に、ある夜ポーランドからアメリカに亡命して来た「ソフィー」がやって来ます。
ソフィーの腕には強制収容所の囚人番号の烙印。「父はポーランドの大学教授でユダヤ人を助けようとした」と語ります。

この二人と青年「スティンゴ」が親友となるのですが、スティンゴはネイサンの紹介でつきあった心に傷を持つ少女に疲れてしまいました。
そんな彼に、ソフィーが身の上を話し始めます。
病気の母のために闇市でハムを買ってアウシュヴィッツに送られたこと。
父と夫がドイツ軍に拉致されて処刑されたこと。
カソリック教徒であるが、解放後に教会で自殺を図ったこと。

ある日、スティンゴは、昔ソフィーの父の講議を受けたという教授から、彼がナチ信奉者だったと聞いてソフィーを問いつめ、ソフィーもそれを認めます。
父と、父の弟子であった夫は反ユダヤ主義者でした。しかし、ナチは構わず二人を拉致して抹殺。ソフィーも息子・娘と一緒にアウシュヴィッツに送られ子供達は抹殺、ソフィーは収容所長の秘書にされたのでした。

その後、スティンゴはネイサンが妄想性分裂症であると知ります。
そんな中でネイサンがソフィーに求婚。
幸福そうなソフィーでしたが、ある日ネイサンの感情が高ぶってスティンゴがソフィーを連れて避難。今度はスティンゴがソフィーに求婚します。
その夜、ソフィーが重い口を開きました。
アウシュヴィッツの駅で、ナチの医者が自分と子供達の前に来て、子供を1人だけ手放せと迫った。『出来ない』と言うと、医者が『では2人とも焼却炉行きだ』と冷たく言い、『娘を連れてって』と叫んでしまった。

翌日、ソフィーの姿はありませんでした。家に戻ったスティンゴは、ソフィーとネイサンが自殺したことを知るのです。

   ☆   ☆   ☆

映画は主に恋愛映画として進みます。
「何でこうなるんだよ」とソフィーの生き方にちょっと疑問を持ちますが、段々核心に迫ってくると目が離せなくなってきます。
そして全てが分かったとき、ソフィーがそうならざるを得ない心の闇に涙します。

ちょうど動画に娘を差し出すシーンがありましたのでアップ致しますね。
映画を見ている私には非常に辛いシーンです。映画館で痛む胸を押さえていた事を思い出しますよ。
字幕が無いので解説しますが、こんな事を言っています。
場面は収容所へ送られる途中。駅で列車から下ろされた所です。

「お前はポラ公(ポーランド)だな。女共産主義者か?」
「・・・・・・・」
「ポラ公なのは分かってる。お前もあの薄汚い共産主義者の一人なのか?」
「私はポーランド人です。クラクフ生れです。ユダヤ人じゃありません。子供達もユダヤ人じゃないんです。子どもたちは人種的に純潔です。ドイツ語が話せます。私はキリスト教徒です。信心深いカトリック教徒です」
医者は振り向きました。眉が吊り上がり、酔った目でソフィーを見据えます。
「キリストは『幼な子らをそのまま私のところへ来させよ』と言ったな」
この時、ソフィーは自分の間違いに気付き、気が動転してしまいました。
「子どものうち一人は残してやる」
「えっ?」
「子どものうち一人は残してやる。だが一人は行かなきゃならない。どっちを残す?」
「選ぶんですか? 私が?」
「お前はポラ公だ、ユダ公じゃない。だから特権をくれてやる。選択させてやる」
「選べません。私、選べません・・・。私には選べません!」
「黙れ! さあ、さっさと選べ。選択しろ畜生め。しないなら二人とも連れてくぞ。急ぐんだ!」
「私に選ばせないで。私には選べません」
「連れて行け!」
医者が大声で叫び、二人とも連れて行かれそうになります。
そしてソフィーはとっさに娘を差し出したのでした。
「小さい子を。小さい子を連れて行って・・・」


自分ならどうするでしょう。
果たして選べるものなのか。でも、躊躇していたら二人とも連れて行かれる。瞬時にどちらかを選ばざるを得ない。
ソフィーが連れて行かれるのを選んだのは下の子。上の子はそれだけ長く一緒にいたから、思い出が少ない下の子なのか。いや、そこまで考えている余裕など無いはず。とっさの判断でしょう。
ウチの子なら末娘?
今は悲しいことに、自分に子供が出来て、この「選択の痛み」がより強くなってしまいました。
一人を助けるためとは言え、自分の手で「この子を」と娘を差し出した。焼き殺されるのを知っていながら。
それに、もし話しかけられたときに言葉が分からないふりをしていたなら、カトリックだなどと言わなかったら。全ては自分のせいなのか・・・。

こんなこと。経験したら気がふれてもおかしくありません。
「選択」。確かに形はそうかも知れませんが、これは「選択した」と果たして言えるのでしょうか。

そして生きてしまったソフィー。
幸せを目の前にしても選べない。手を伸ばせない。自分は幸せになってはいけない、生きていてはいけないのだ。
ずっとそう思っていたのでしょうか。最後の「選択」。悲しいです。


「悩み多き」なんて普段言っている私ですが、このソフィーの傷に比べたらどれほどのものでしょう。
これで、ますますこの映画を観たくなくなった。観られなくなったというわけです。

さて、私だけでは面白くありません。皆さんにもその辛さを少しだけ味わってもらいましょう。
ではどうぞ・・・。

アウシュヴィッツの駅のシーンより
https://www.youtube.com/watch?v=DZ9bht5H2p4
(動画更新2018.11.01)
※動画が削除されていたらごめんなさい。

もし、この映画がこのテンションでずっと進んだら、息が詰まって卒倒するかもしれません。
あまりに強烈すぎるので、恋愛色を強くするくらいで丁度良いです。
そして、その心的外傷がソフィーの行動の全てに影響を及ぼしている事が理解出来るのです。


映画も良いですが本もいいです、ちょっと長いですけどお勧めします。