『砂の器』~何度もリメイクされている最強の名作 | 話題満載 池ちゃんの『破常識』で行こう!

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松本清張の小説は数々ありますが、「映画」として私の心に大きく関わったのは「砂の器」(1974年)です。
今から10年近く前、新聞に「ハンセン病基本法成立」のニュースが載りました。別記事「優生」と「優性」でも触れますが、私がハンセン病の問題を意識するきっかけとなりました。
原作者の遺族の意向もありますが、今のテレビ版の様に「ハンセン病」を外してしまうと、全くの「別作品」になってしまうからなのです。



映画 クライマックスシーン
https://www.youtube.com/watch?v=ICs_MJrsRRY

当時、ハンセン病は遺伝し移ると信じられており、社会から隔離され始めていました。
「親がハンセン病であれば子に遺伝し、近寄れば自分にも移される。だから排除せよ」と、村の入り口には「ハンセン病患者は入るな」と看板が立てられたのです。
千代吉が三木巡査から逃げ出したのも、戸籍を偽って別人になったのも、全ては「ハンセン病患者の子」である事を隠すため。もしそれを知られたら、「ハンセン病患者の身内がいる」と騒ぎになり、結婚どころか社会から抹殺されてしまう。だから、素性を知る三木を殺す以外の道が無かったのです。
どこに逃れようと「血」は変えられない。人間性云々ではなく「血」なのだ。
この、途方もなく重い『宿命』。あのピアノ曲はそういう曲なのです。
たんなる「殺人事件の容疑者の息子」に、どこまで宿命があるのでしょうか…。




話を小説に移しましょう。
確かに清張の小説に関しては色々と言いたい事がありますよね。文章の流れが悪いし唐突だし、設定にも無理が多い。
そもそも、子供の頃に一切ピアノや音楽教育を受けずに「一流ピアニスト」や「作曲家」になど急になれる筈がありません。映画・テレビ版など、その作品によって設定がまちまちではありますが、どちらにしても大人になってからヒョイとなれる職業では無いです。
しかし、そういう点を差し引いても清張の小説には力があり、主張があります。
戦後の混乱時、何でもやって喰わざるを得ない本質をストレートに描きますし、蓋をされそうな社会的問題にも切り込んでいます。
細部に拘り作品数を増やせない作家もいる中、「私はこれが言いたい」と次々に作品を発表し、問題を提起し続けた清張の書き方には意義があると思いますよ。

話しを「ハンセン病」に戻しますが、実はこの問題まだ終わったわけではありません。
患者達の高齢化が進む中、当時警察まで動員して強制収容・隔離、断種・避妊処置を行った結果として、介護する実子がいないという現実が浮上しているのです。
「療養」など名ばかりで強制労働に従事させるなど、国の非人道的な対処こそ無くなったものの、療養所には必要な医師の数さえ手当されず、「偏見」の世界に置かれたまま。親戚がいても、映画『望郷』の「おサキ」さんの様な状況の方もおられます。
今回「ハンセン病基本法」が成立した事によって法的には大分前進するでしょう。しかし、今度は我々の方が問われる番です。診療拒否、宿泊拒否を許さない社会的モラルを構築できるか、住居の賃貸契約拒否や姻戚者との結婚拒否等の偏見や差別を無くす事が出来るか。
この問題をもっと多くの人が知り、正しく認識して欲しい、そう思います。

私はこの映画を漫然と観ることが出来ません。涙と共に腸をえぐられる様な気持ちになります。
この男が、幼い頃に世話になった巡査を殺してまで自分の過去を隠さざるを得ない事情、決して地位や名誉を守る保身などではない。
国策によって離島に隔離され、結婚するための条件として、断種手術を強要される病気の親を持つ子なのです。
夫が発病したと知った妻は子を置いて逃げだし、村を追われて巡礼姿で物乞いする父子。
世間・社会・身内からも拒絶され、仕事も宿も食べる物さえ手に入れられず、海や川で体を洗う日々。飯を恵んでもらおうとしても、顔を見て病気と分かった途端に戸を閉められる。
そんな絶望の淵を父親と二人で歩いた男。死んでも尚、背負い続ける「ハンセン病患者の子」。それがこの男の「宿命」。

果たして、本当にこの男は冷酷な人間なのでしょうか。
身ごもった子を「産ませて欲しい」と頼む、婚約者とは別の女性の言葉に異常なまでの拒否反応を示し、ついに殺してしまいます。
一見すると、元大臣の娘との結婚の邪魔になって殺したように見えますが、私にはそう思えないのです。男が殺したかったのは女ではなく「子供」。それもこれも、自分と同じ宿命を負う子供が産まれる事への恐怖なのではないでしょうか。