ベルガーの炎上と、プロストの激しい怒り。破局はここから始まった(1989年、サンマリノGP) | 日日不穏日記・アメブロ版

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 開幕戦を落としたマクラーレン。NAエンジン化がここまではっきりし形で結果に表れるのは予想外だったとは言え、トータルのパッケージでトップを行くのは、やはりマクラーレン・ホンダ。フェラーリもウィリアムズもライバルとなるには、まだ信頼性やエンジンパワーが不足していた。

 タイトルを激しく争うのは、フェラーリは翌90年、ウィリアムズは91年になってから。加えて、当時のマクラーレンには最強の2人のドライバーがいた。ただ、その関係は、イモラでさらに大きく損なわれる。それも、プロストが一方的に裏切られるという形で・・・。

 ベルガーのタンブレロでのクラッシュ、赤旗中断がなかったら、両者の関係はどうなっていただろう?再スタートでセナが、“紳士協定”を破っていなければ、89年はもう少し違ったものになっていたのかもしれないのではないか?そんな問いを何度も自分に発したものだ。

 そのくらい、このレースは後味が悪く。レース映像を見返すたびに、それを思わずにはいられないのだ。

 ベルガーのクラッシュに話を戻そう。激しいクラッシュと炎に包まれるフェラーリ。『セナVSプロスト』によれば、ベルガーは2008年の回想で「ああ、これが俺の最期の瞬間なんだな」と思ったよ」(P.240)と語っている。



 自分の思考がスローモーションのように切り替わり、「車が曲がらない」と思いつつ、ミラーで、タイヤがパンクしてないか、サスペンションが破損してないか、そんなチェックを全部して、それから短い間、意識を失ったという。

 意識が戻った時には、チーフメディカルオフィサーのシド・ワトキンス教授が、空気を送ろうとしていた・・・というから、本当に短い時間だったのは間違いない。ベルガーのレーシングスーツに染み込んでいたガソリンがワトキンス教授の服にも染みて、教授自身も火傷を負ったというから、迅速な手当てがなければ、ベルガーの命が失われていたのは間違いないだろう。

 「こんなクソみたいな乗り物は、二度と目にしたくない」(P.241)と思った2時間後には、またレース自分がまたレースを走るんだということが分かっていたというベルガー。

 レースはマクラーレンの1-2。表彰台では笑みを見せたプロストも、記者会見には姿を見せなかった。セナは“紳士協定”を解釈の差と突き放す。

 セナにとっては、チームメイトより、気になっていたのは、ベルガーのことだった。セナからの電話を受けたベルガーは、数週間後のイモラで行われた次のテストにセナを、“あのコーナー”まで連れて行き、壁を動かせないことが分かると、そのまま何もせずにピットまで歩いて戻った、と振り返る。 

 ここまで話したベルガーは一度話を止め、囁くような小さな声でこう言った。「あの時、私たちが立っていたのが、“彼が死ぬことになる”場所だった・・・」(P.244)