1994年のイモラサーキットでの、セナの事故死にコメントを求められたミケーレ・アルボレートは激怒していた。タンブレロでのクラッシュはベルガー、ピケのものが有名だけれども、ピケの前にはアルボレートもタンブレロでクラッシュしていた。
“呪われたイモラ”では、セナとラッツェンバーガーの事故死だけでなく、最初のスタート時にJJ・レートに、ペドロ・ラミーが激突。観客席まで破片が吹き飛び、観客が負傷、セナの事故後再開されたレースでピットインしたアルボレートのリアタイアが外れ、タイヤの直撃を受けたロータスやフェラーリのピットクルーまで負傷するアクシデントが起きる。
そんな中でコメントを求められたのだ、平静でいられるわけがないだろう。
94年のアルボレートは、37歳で、F1最後のシーズンをミナルディで送っていた。F1通算5勝。ベストシーズンはプロストとタイトルを争った85年だろうけれども、僕には、新鋭ベルガーの後塵を拝することの多かったフェラーリ時代末期の記憶しかないから、むしろ、全16戦中14戦を完走し、4度の入賞、6度の7位。全ドライバー中、最も多い周回数をこなした92年のフットワーク時代の方が印象深い。
チームメイトは亜久里だったし、比較しても、その安定性は際立ってたから、いかにオーナーが日本人とは言え、成績の良かったアルボレートの方を放出するフットワークチームに理不尽なものを感じたのも事実。
翌年のフットワークのマシンが、信頼性に欠けたとはいえ、極めて速かっただけにアルボレートの走りを本当に見たかったのだ。結局、アルボレートは、ローラ、ミナルディという弱小チームでF1キャリアを終え、インディカーやル・マンに活動の舞台を移し、1997年にステファン・ヨハンソン、トム・クリステンセンとTWRポルシェ・WSC95で出走し、優勝を果たす。
が、2001年4月25日、ドイツのラウジッツリンクにてル・マンのためのテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、この事故が原因で翌日死去する。享年44。
ティフォシに愛された地元イタリア人ドライバーのアルボレートの死から、もうじき10年になる。