子規の写生文(14) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

このシリーズでは、俳句及び短歌の革新に続き、文章(散文)の革新(写生文)を行った正岡子規の、主に雑誌『ホトトギス』に掲載された比較的短文の写生文について紹介している。第12回、第13回の「病」に続いて、以下では『ホトトギス』に掲載された「熊手と提灯」(明治32年[1899年]12月)を2回に分けて紹介する。

 

「熊手と提灯」(1)

 

本郷の金助町に何がしを訪うての帰り例の如く車をゆるゆると歩ませて切通の坂の上に出た。それは夜の九時頃で、初冬の月がえ渡って居るから病人には寒く感ぜられる。坂を下りながら向うを見ると遠くの屋根の上に真赤なが忽ち現れたのでちょっと驚いた。箒星が三つ四つ一処に出たかと思うような形で怪しげな色であった。今宵は地球と箒星とが衝突すると前からいうて居たその夜であったから箒星とも見えたのであろうが、善く見れば鬼灯提灯(ほおずきちょうちん)しくかたまって高くさしあげられて居るのだ。それが浅草の雷門辺であるかと思うほど遠くに見える。今日はでしかも晴天であるから、昨年来雨に降られた償いを今日一日に取りかえそうという大景気で、その景気づけに高くってある提灯だと分るとその赤い色が非常に愉快に見えて来た。


 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人がりに目につくから、どんな奴が熊手なんか買うかに人相を鑑定してやろうと思うて居ると、向うから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人であろうか、しかし善く分らぬ。月が後から照して居るので顔ははっきり見えぬが何でも慾ばって居るような人相だ。こんな奴にはきっと福は来ないよ。身分不相応な大熊手を買うて見た処で、いざ鎌倉という時に宝船の中から鼠の糞は落ちようと金がいて出る気遣はなしさ、まさか大仏の(かんざし)にもならぬものを屑屋だって心よくは買うまい。

 

……やがて次の熊手が来た。今度は二人乗のよぼよぼ車に窮屈そうに二人の婆さんが乗って居る。勿論田舎の婆さんでその中の一人が誠に小い一尺ばかりの熊手を持って居る。もし前の熊手が一号という大きさならこの熊手は廿九号位であるであろう。その小さな奴を膝の上にも置かないでやはり上向けて大熊手持ったようにさしあげて居たのもおかしい。その無邪気な間の抜けた顔はかに無慾という事を現して居るので、こいつには大に福を与えてやりたかった。自分が福の神であったら今宵この婆さんの内に往て、そっとその枕もとへ小判の山を積んで置いてやるよ、あしたの朝起きて婆さんがどんなに驚くであろう。しかし善く考えると福相という相ではない。むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を孫娘の嫁入に譲ってやる方だ。して見ると福の神はこんなくちゃ婆さんを嫌うのであろうか。あるいは福の神はこの婆さんの内の門口まで行くのであるけれど、婆さんの方で、福なんかいらないというて追い返すような人相とも見える。

 

……次も二人乗の車だが今度は威勢が善い。乗ってる者は、三十余りか四十にも近い位の、かっぷくの善い、堅帽をった男で、中位な熊手を持って居る。大方かなりな商家の若旦那であろう。四十近くでは若旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、それで仕方なしに今に若旦那で居るという人相をして居る、に乗って居るのは十二、三の少年でこれが末の弟に違いない。こいつにも余り福をやりたくないのであるが、しかし大鷲大明神なかなか慾ばって居るからこれくらいの熊手を買うてもろうた義理に少しはき込んでやるかもしれない。

 

……仲町を左へ曲って雪見橋へ出ると出あいがしらに、三十四、五の、丸髷に結うた、栗に目口鼻つけたような顔の、手頃の熊手を持った、不断著のままに下駄はいた、どこかのさんが来た。くたびれた様も見えないで、下駄の歯をかつかつと鳴らしながら、さっさと帰って行く。その人相を見るに、これは夫婦ぐらしで豆屋を始めて居て夫婦とも非常な稼ぎ手ではあるが、上さんの方がかえって愛嬌が少いので、上さんはいつも豆のり役で、亭主の方が紙袋に盛り役を勤めて居る。もっともこの亭主は上さんよりも年は二つ三つ若くて、上さんよりも奇麗で、上さんよりもお世辞が善い。それで夫婦中は非常に善く調和して居るから不思議だ。今その上さんが熊手持って忙しそうに帰って行くのは内に居る子供がのお土産でも待って居るのかとも見えるがそうではない。

 

この夫婦には子は一人もないのでこの上さんは大きな三毛猫を一匹飼うて子よりも大事にして居る。しかし猫には夕飯まで喰わして出て来たのだからそれを気に掛けるでもないが、何しろ夫婦ぐらしで手の抜けぬ処を、例年の事だから今年もちょっとお参りをするというて出かけたのであるから、早く帰らねば内の商売が案じられるのである。ほんとうに辛抱の強い、稼ぎに身を入れる善い上さんだ。これにこそ福を与えて善かろう。もしこの上さんに福をやらなければ福をやるべき人間は外にあるはずはない。この上さんが毎晩五銭ずつを貯金箱に入れる事にきめて居るのだが、せめてそれを十銭ずつにしてやりたいよ。するとその貯金がたまって後には金持に出世する。しかし大鷲の意見と僕の意見と往々衝突するから保証は出来ない。(続く)