子規の写生文(13) | 俳句の里だより2

俳句の里だより2

俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

このシリーズでは、俳句及び短歌の革新に続き、文章(散文)の革新(写生文)を行った正岡子規の、主に雑誌『ホトトギス』に掲載された比較的短文の写生文について紹介している。前回(第12回)に続いて、以下では『ホトトギス』に掲載された「病」(明治32年[1899年]12月)の残りの部分を紹介する。

 

「病」(2)

 

ただこの後の処分がどうであろうという心配が皆を悩まして居る内に一週間停船の命令は下った。再び(かなえ)の沸くが如くに騒ぎ出した。終に記者と士官とが相談して二、三人ずつの総代を出して船長を責める事になった。自分も気が気でないので寐ても居られぬから弥次馬でついて往た。船長と事務長とをさんざん窮迫したけれど既往の事は仕方がない。何でも人夫どもに水を飲ませるのが悪いというので、水瓶の処へ番兵を立てる事になった。自分は足がガクガクするように感ぜられて、室に帰って寐ると、やがて足は氷の如く冷えてしもうた。これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機であるから、もしやコレラが伝染したのであるまいかという心配は非常であった。この梅干船(この船はが悪いのでこの仇名を得て居た)が我最期の場所かと思うと恐しく悲しくなって一分間も心の静まるという事はない。しかし郵便を出してくれると聞いて、自分も起き直って、ようようなど取り出し、東京へやる電報を手紙の中へ封じてある人に頼んでやった。こういう際には電報をやるだけでもいくらかの心やりになるものだ。

 

この夜また検疫官が来て、下痢症のものはく上陸させるというので同行者中にも一人上った者があった。自分も上陸したくてたまらんので同行の人が周旋してくれたが検疫官はどうしても許さぬ。自分の病気の軽くない事は認めて居るが下痢症でない者を上陸させろという命令がないから仕方がないという事であった。如何にも不親切な、臨機の処置を知らぬ検疫官だと思うて少しは恨んで見た。しかし今は平和の時でないのだから余り卑怯な事はいうまい位の覚悟は初めからして居る。そう思うて自分はあきらめた。けれどもつくづくと考えて見るとまた思い乱れてくる。平生の志の百分の一も仕遂げる事が出来ずに空しくのほとりに水葬せられて平家蟹餌食となるのだと思うと如何にも残念でたまらぬ。この夜から咯血の度は一層くなった。固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血はく呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。

 

夜が明けても船の中は甚だ静かで人の気は一般に沈んで居る。時々アーアーという歎声をらす人もある。一週間の碇泊とは随分長い感じがする。甲板から帰って来た人が、大山大将を載せた船は今宇品へ向けて出帆した、と告げた時は誰も皆ましく感じたらしい。この船は我船よりれて馬関へはいったのである。殊に第二軍司令部附であった記者は、大山大将が一処に帰ろといわれたのを聴かずに先へ帰って来て実にいまいましい訳だ、とんで居た。乗合一同皆思案にくれて居る中、午後四時頃になって一道の光明はち暗中に輝いて見えた。それは、上陸の許否は分らぬがとにかく、和田の岬の検疫所へ行く事を許されたという事であった。上陸せんまでも、泊って居るよりは動いて居る方が善いというのは船中の輿論である。船は日の暮に出帆した。非常にのろい速力でゆっくりと行たので翌日の午後にく和田の岬へ著いた。上陸が出来るか出来んかと皆固唾を呑んで待って居たがこの日は上陸が出来ずに暮れてしもうた。

 

翌日の十時頃に上陸の事にきまったので一同は愁眉を開いた。殊に荷物を皆持って上れという命令があったので多分放免になるのであろうと勇みに勇んで上陸した。湯に入って(自分はいただけで)折詰の御馳走を喰うて、珍しく畳の上に寐て待って居ると午後三時頃に万歳万歳、という声が家をかして響いた。これは放免になった歓びの叫びであった。この時の嬉しさは到底いう事も出来ぬ。自分は人力車で神戸の病院へ行くつもりであったから、肩には革包(かばん)をかけ、右の手にはかなり重い行李を提げ、左の手は刀を杖について、ぎ喘ぎそろそろと歩行いて見たが、歩行くたびに血をくので、砂の上へ行李をして腰かけて休んで居た。声を揚げて人を呼ぶ気力もうない。折よく連の人が来たので、自分の容態を話し、とても人力には乗れぬから釣台を周旋してくれまいかと頼んだ。その人は快く承諾して、他の連と相談した上で一人を介抱のために残して置いて出て往た。このさいに自分が同行者の親切なる介抱と周旋とを受けた事は深く肝に銘じて忘れぬ。

 

二時間ばかり待ってようよう釣台(つりだい;運搬台)が来てそれに載せられて検疫所を出た。釣台には油単(ゆたん;布カバー)が掛って居て何も見えぬけれども人の騒ぐ音で町へ這入った事は分る。殊に往来の多いのと太鼓などの鳴って居るのとで考えると土地の祭礼であるという事も分った。上陸した嬉しさと歩行く事も出来ぬ悲しさとで今まで煩悶して居た頭脳は、祭礼の中を釣台で通るというコントラストに逢うてまた一層煩悶の度を高めた。丁度ともし頃神戸病院へ著いた。入院の手続は連の人が既にしてくれたので直に二階のある一室へ這入った。二等室というので余り広くはないが白壁は奇麗で天井は二間ほどの高さもある。三尺ばかりの高さほかない船室に寐て居た身はここへ来て非常の愉快を感じた。殊に既往一ヶ月余り、地べたの上へ黍稈(むぎわら)を敷いて寐たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寐たりという境涯であった者が、に、蒲団や藁蒲団の二、三枚も重ねた寐台の上に寐た時は、まるで極楽へ来たような心持で、これなら死んでも善いと思うた。しかし入院後一日一日と病はりて後には咯血にせるほどになってからはまた死にたくないのでいよいよ心細くなって来た。やがて虚子が京都から来る、叔父が国から来る、危篤の電報に接して母と碧梧桐とが東京から来る、という騒ぎになった。これが自分の病気のそもそもの発端である。(了)