子規随筆の中の俳句・短歌(6) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

「墨汁一滴」(1)

 

このシリーズでは脊椎カリエスにより寝たきりの人生を送った時代に書かれた4大随筆(「松羅玉液」「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」)の中の俳句や短歌に加え、人力車で短時間外出した際に詠んだ短歌(「亀戸まで」)についても紹介している。前回は、最初の随筆「松羅玉液」の中の俳句268句(子規;131句、他;137句)を紹介したが、それに続いて、2番目の随筆「墨汁一滴」の中の俳句87句(子規;30句、他;57句)と短歌130首(子規;66首、平賀元義;53首、他;11首)を紹介することとする。

 

「墨汁一滴」は、「松羅玉液」を著した4年後、子規が33歳の明治34年(1901年)1月16日から同年7月2日まで、途中4日休んだだけで計164回にわたり新聞「日本」に掲載された。子規はこの翌年の9月に死去するが、この頃子規の病状はすでに寝たきりで苦痛も酷く、無残な状態だった。それでも俳句や短歌を詠み、随筆を著し続けた。特に、短歌について、それまで知られていなかった幕末の歌人平賀元義を発掘するとともに(2月14日~2月26日)、自分でも「藤の花10首」(4月28日)、「山吹の花10首」(4月30日)、「しひて筆を取りて10首」(5月4日)などの優れた歌を詠んだ。以下、これらの俳句と短歌を4回に分けて紹介する。まずは1月16日から2月23日までの俳句5句と短歌56首(内、平賀元義53首)を紹介する。

 

◎明治34年(1901年)1月16日

〇寝たきりの枕辺に状袋箱とその上に寒暖計があり、その下に新年の橙と寒川鼠骨から20世紀のお年玉として貰った地球儀があり、これが自分(子規)の病室の蓬莱であるとして詠んだ歌

 枕べの 寒さ計りに 新年の 年ほぎ縄を 掛けてほぐかも

 

◎1月17日

〇1月7日(七草)の日の短歌会に、岡麓が持って来た竹の籠に土を盛って植えられた七草が趣深く、詠んだ歌

 あら玉の 年のはじめの 七くさを 籠に植ゑて来し 病めるわがため

 

◎1月22日

〇伊勢山田の商人の大内人勾玉から小包が届き、開けて見ると目録とともに病気平癒の品々があり、それに書いてあった勾玉の詠んだ歌

 いたつきの いゆといふなる 高倉の 御山のしだぞ 箸としたまへ

 

◎1月24日

〇筆を取って物を書くのが困難になり、そのため「墨汁一滴」(一滴の間に書ける文章)を思いついて新聞に投稿することを自らの慰みとして詠んだ句

 筆禿びて 返り咲くべき 花もなし

 

◎1月28日

〇今年のお年玉に、鼠骨から三寸の地球儀、大黒の葉書さし、夷子の絵葉書、千人児童の図、八幡太郎一代記の絵草紙など、珍しいものを貰ったが、これらを並べて見ていると贈り主の趣味が顕れて興味深く、詠んだ句

 年玉を 並べて置くや 枕もと

 

◎2月5日

〇節分の夜に宝船の絵を敷寝して初夢を占うことは、自分の郷里だけでなく関西一般の行事だが、東京では1月2日の夜に宝船を売り歩く。しかし、これも古い風俗と見え、「滑稽太平記」にはこんな句がある。

  回禄以後鹿相成家居に越年して

 去年たちて 家居もあらた 丸太かな (卜養)

 宝の船も 浮ぶ泉水 (玄礼)

 

◎2月6日

〇節分にはいろいろな行事があり、この夜四辻に汚い犢鼻褌(ふんどし)、焙烙(ほうろく;茶器)、火吹竹などを捨てたりする。犢鼻褌を捨てるのは、厄年の男女が厄を脱ぎ落すとのことで詠んだ句

 四十二の 古ふんどしや 厄落し

 

◎2月16日

〇平賀元義の歌は純粋な万葉調であり、理屈や修飾は無く、実事実景を詠んでいるが、その例(元義の歌)を8首

 うしかひの 子らにくはせと 天地の 神の盛りおける 麦飯の山

 柞葉の 母を念へば 児島の海 逢崎の磯 浪立ちさわぐ

 あらたへの 藤戸の浦に 若和布売る おとひをとめは 見れど飽かぬかも

 まそかがみ 清き月夜に 児島の海 逢崎山に 梅の散る見ゆ

 父の峰 雪ふりつみて 浜風の 寒けく吹けば 母をしぞ思ふ

 古の ますらたけをが 渡りけん 小田の渡りを 吾も渡りつ

 ここにして 紅葉を見つつ 酒のめば 昔の秋し 思ほゆるかも

 盃に 散り来もみぢ葉 みやびをの 飲む盃に 散り来もみぢ葉

 

◎2月17日

〇元義の歌7首(短歌5首、長歌2首(略))

 吾大君 ものなおもほし 大君の 御楯とならん 我なけなくに

 大君の 御門国守 まなり坂 月面白し あれ独り行く

 高島の 神島山を 見に来れば 磯まの浦に 鶴さはに鳴く

 妻ごみに 籠りし神の 神代より 清の熊野に 立てる雲かも

 うへ山は 山風寒し ちちの実の 父の命の 足冷ゆらしも

(他に、長歌2首あり)

 

◎2月18日

〇元義の歌3首(短歌1首(反歌)、長歌2首(略))

 吹風も のどに吹なり 冬といへど 雪だにふらぬ 吉備の国内は

 

◎2月19日

〇元義の歌には「吾妹子」の語を用いることが極めて多く、「吾妹子先生」のあだ名がついたが、その例を4首

 妹と二人 暁露に 立濡れて 向つ峰上の 月を看るかも

 妹が家の 向の山は ま木の葉の 若葉すずしく おひいでにけり

 鴨山の 滝津白浪 さにつらふ をとめと二人 見れど飽かぬかも

 久方の 天つ金山 加佐米山 雪ふりつめり 妹は見つるや

 

◎2月20日

〇元義の「吾妹子」の歌13首

 石上 ふりにし妹が 園の梅 見れどもあかず 妹が園の梅

 皆人の 得がてにすちふ 君を得て 吾率寝る夜は 人な来りそ

 矢かたを うち出て見れば 梅の花 咲有山辺に 妹が家見ゆ

 若草の 妻の子故に 川辺川 しばしば渡る 嬬の子故に

 吾妹子を 山北に置きて 吾くれば 浜風寒し 山南の海

 有明の 月夜をあかみ 此園の 紅葉見に来つ 其戸令開

 妹に恋ひ 汗入の山を こえ来れば 春の月夜に 雁鳴き渡る 

 妹が家の 板戸押ひらき 吾入れば 太刀の手上に 花散りかかる

 夕闇の 道は暗けど 吾妹子に 恋ひてすべなみ 出てくるかも

 遠くとも いそげ大まろ 吾妹子に 早も見せまく ほしき此文

 吾妹児破 都婆那乎許多 食雞良詩 昔見四従 肥坐二雞林

  (わぎもこは つばなをここだ くいけらし むかしみしより こえましにけり)

 逢崎は 名にこそありけれ はしけやし 吾妹が家は 雲井かくりぬ

 春の田を かへすがへすも 妹が文 見つつし居れば 夜ぞあけにける

 

◎2月21日

〇元義の歌には、「吾妹子」に対して「ますらを」の語も多くあり、その「ますらを」の歌の例を8首

 言あげて 雖称つきじ 月の没る 西の戎の 大丈夫ごころ

 高田のや 加佐米の山の つむじ風 ますらたけをが 笠吹きはなつ

 大井川 朝風寒み 大丈夫と 念ひてありし 吾ぞはなひる

 丈夫は いたも痩せりき 梅の花 心つくして 相見つるから

 天地の 神に祈りて 大丈夫を 君にかならず 令生ざらめや

 鳥が鳴く あづまの旅に 丈夫が 出立将行 春ぞ近づく

 石竹も にくくはあらねど 丈夫の 見るべき花は 夏菊の花

 弓柄とる なすらをのこし 思ふこと とげずほとほと かへるべきかは

 

◎2月22日

〇元義は国学者と自ら任じていたが、古学に対する彼の学説はその遺稿が無く不明であり、その主義を多少とも表していると思われる歌の例6首

 おほろかに 思ふな子ども 皇祖の 御書に載れる 神の宮処

 菅の根の 長き春日を 徒に 暮らさん人は 猿にかもおとる

 ことさへぐ 国の長人 さかづきに 其が影うつせ 妹にのません

 今日よりは 朝廷たふとみ さひづるや 唐国人に へつらふなゆめ

 暗四鬼の 司人等 ねがはくは 皇御国の 大道を行け

 大君の 御稜威加賀焼 日之本荷 狂業須流奈 痴廼漢人

 (おおきみの みいつかがやく ひのもとに たわわざするな おそのからびと)

 

◎2月23日

〇元義の歌は、万葉調を学んだためにその趣向は平淡で変化に乏しいが、時にはやや異様な歌になり、その例8首

 天照 皇御神も 酒に酔ひて 吐き散らすをば 許したまひき

 大な牟遅 神の命は 袋負ひ をけの命は 牛かひましき

 足引の 山中治左が 佩ける太刀 神代もきかず あはれ長太刀

 五番町 石橋の上で 我〇〇を たぐさにとりし 我妹子あはれ

 弥兵衛が 十つかの剣 遂に抜きて 富子を斬りて 二きだとなす

 弥兵衛が こやせる屍 うじたかれ 見る我さへに たぐりすらしも

 吾独 知るとまをさば かむろぎの すくなひこなに つらくはれんか

 弓削破只 名二社在雞列 弓削人八 田乎婆雖作 弓八不削

 (ゆげはただ なにこそありけれ ゆげびとは たをばつくれど ゆみはけずらず)