子規随筆の中の俳句・短歌(3) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

「松羅玉液」(3)

 

ここでは、脊椎カリエスにより寝たきりの人生を送った時代に書かれた4大随筆(「松羅玉液」「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」)の中の俳句や短歌について紹介しているが、その他に、人力車で短時間外出した際に詠んだ短歌(「亀戸まで」)についても紹介することとする。

 

最初は、子規が28~29歳の時の随筆「松羅玉液」の中の俳句268句(子規;131句、他;137句)について、5回に分けて紹介するが、「松羅玉液」は明治29年(1896年)4月21日から同年12月31日まで、計32回にわたり断続的に新聞「日本」に掲載された。この「松羅玉液」には、当時はまだ珍しい「遊戯」だったベースボールについての詳しい紹介(7月19日~7月27日)や、俳句の類似性・剽窃などの例(10月5日~10月19日)が記載されている。前回(2回目)では、8月1日から8月24日までの42句を紹介したが、今回(3回目)では、8月27日から9月21日までの42句を紹介する。

 

◎8月27日

〇知人の林江左氏が本年6月27日に没し(享年59歳)、これまでのご無沙汰などを侘び忸怩たる思いになったが、江左氏の辞世の句など2句と、それに対する子規の弔いの句

 日盛りや 蟻も地獄へ 落ちて行く (江左)(6月初めの句)

 寐返りも ならぬ耳なり 時鳥 (江左)(辞世の句)

 今頃は 蓮にすわつて 時鳥 (子規) 

 

〇前年子規が奥州行脚(はて知らずの記)を思い立った際に、江左氏は子規のために宗匠を紹介したり、はなむけを贈ったり、いろいろと面倒を見たが、それに対して子規が詠んだ句

 旅硯 庭の桔梗は 咲きにけり

 

〇避暑旅行を思い立つが、自分はどこへも行けず、一方で墨水は静岡へ行こうと菅笠に身を隠して箱根を越えようとするのが面白く、はなむけに詠んだ句

 団扇もて われに吹きおくれ 富士の風

 

〇肋骨は野州(栃木県)に住み、碧梧桐はその後を追い榛名に遊ぶなど羨ましいと思うが、特に榛名は10年前に自分も行った思い出の地であり、そのことを想い詠んだ5句

 やや寒み ちりけ打たする 温泉かな

 草むらや 露あたたかに 温泉の流れ

 高楼や われを取り巻く 秋の山

 山駕や 榛名上れば 草の花

 駕二つ 徒歩五六人 花薄

 

〇種竹山人もまた松島へ出立すると聞いて、はなむけに詠んだ2句

 歌は古し 詩で白河の 秋の風

 ひとへもの 松島の秋に 驚くな

 

〇徒然坊が富士へ上ったことを知り、いまいましく思いつつ自分も富士に上ったつもりで詠んだ6句

 世の夏を 見おろして居る 寒さかな

 星凍る 銀明水や 土用の入

 唾せば 若し夕立と なりやせん

 見渡すや 只秋の空 秋の雲

 秋風や 下界の雲を かきまぜる

 ひややかな 赤い朝日が ぽつかりと

 

◎9月21日

〇今年は萩が咲くのが遅いようだが、人々が集まって庭前の萩の花を見てそれぞれに詠んだ7句

 男萩女萩 男萩ばかりは 咲きにけり (牛伴)

 豆腐屋も 肴屋も来ぬ 萩の花 (碧梧桐)

 萩の中を 豆腐屋の来る 小庭かな (蒼苔)

 萩三株 小庭なかばに 広がりぬ (蒼苔)

 萩の中 しかつめらしく 松立つたり (桜巷)

 井戸端の 盥に萩の こぼれけり (把栗)

 萩咲いて 主人の病 癒えにけり (其村)

 

〇萩のうしろに薄があり、それを見てそれぞれに詠んだ10句

 上根岸 萩も薄も あるところ (牛伴)

 芒の穂 六尺にして 楣を摩す (牛伴)

 十日見て 少し狂ひぬ 花すすき (碧梧桐)

 萩芒 中に小松の 生ひまじる (墨水)

 薄高く 萩低く庭に 嵐吹く (墨水)

 蜻蛉の とまりかねたる 薄かな (蒼苔)

 伏して見るや 薄の中の 上野山 (天歩)

 風吹いて 障子にさはる 芒かな (天歩)

 鴉飛んで 芒のそよぐ 小庭かな (左衛門)

 ざわざわと 芒は萩を こぼしけり (桜巷)

 

〇その他に朝顔や鶏頭の咲くのが見えて、それぞれに詠んだ7句

 杉垣の 裏や日中の 小朝顔 (牛伴)

 蟻二匹 朝顔の実を 引いて行く (牛伴)

 朝顔の 松に取りつくは 花白し (碧梧桐) 

 庭狭し 朝顔鶏頭 萩薄 (蒼苔)

 竹垣の 朝顔みんな 萎みけり (左衛門)

 鶏頭の ひょろひょろ高き 小庭かな (左衛門)

 庭内や 曰く鶏頭 曰く萩 (悠々)