芭蕉紀行文の中の俳句(13) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

奥の細道(4)

 

今日から6月、水無月である。昨日までは5月、皐月で「早苗を植える月」だったが、水無月は「水の月」すなわち「田に水を引く月」とされる。そして、来月は7月、文月であり「稲の穂が実る月」とされる。言うまでもなく、皐月、水無月、文月などは「和風月名」と呼ばれ、旧暦(太陰暦)の季節や行事に合わせたもので、今の暦(新暦:太陽暦)では1ヶ月半余り遅い季節である。本シリーズで紹介している「芭蕉紀行文」に出て来る月日は、もちろん旧暦であり、紀行文中にある6月と言えば、まさに夏の盛りの季節である。

 

それはさておき、本シリーズは、芭蕉が晩年に旅に出て綴った紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」の中の俳句について紹介している。これまで、「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「更科紀行」の中の俳句を紹介し、続いて芭蕉最後の紀行文「奥の細道」の中の俳句(全部で62句)について4回の内3回までを紹介してきた。そして、今回の4回目でもってそれを終え、本シリーズのすべてが完了することとなる。

 

前回(第3回)は、6月3日の出羽三山から7月13日の越中(富山)・加賀(石川)国境までに詠まれた16句(「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」「暑き日を 海に入れたり 最上川」「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」「一家に 遊女も寝たり 萩と月」など)を紹介したが、今回(第4回)では7月22日の金沢から8月下旬の大垣までに詠まれた17句と歌1首を紹介して終えることとする。

 

〇7月15日に越中の高岡を出立、倶利伽羅峠を越えて加賀の金沢に入り、逢いたいと思っていた金沢の門人一笑(小杉味頼)が昨年冬死去したことを知って大いに落胆する。7月22日、一笑の兄が弟の冥福を祈って一笑追善句会を開いたが、その時に悲痛な気持ちで詠んだ句(句意は、一笑よ、君の塚(墓)を目の前にしているが、生前の君を思って大声で泣いている。あたりを吹き抜ける秋風のように激しくわびしい涙なのだ。塚よ、私の呼びかけに答えてくれ!)

 塚も動け 我が泣く声は 秋の風

 

〇7月20日、ある草庵(松幻庵)に招かれて、出された料理に感謝を込めて詠んだ句(句意は、初秋の風が涼しく吹いている。主人の出してくれた瓜や茄子を皆でそれぞれに剥いて食べましょう)

 秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子

 

〇金沢から小松への旅の途中で詠んだ句(句意は、夕日がまだ夏のように赤々と沈もうとしている。けれど季節はすでに秋で、風がそれを知らせてくれる)

 あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 

〇7月24日金沢を出立し、7月26日に小松で句会が開催されたが、その時に詠んだ句(句意は、かわいい名前だ、小松とは。その浜辺の小松に今は秋の風が吹いて、萩やススキの穂波をなびかせていることだ)

 しをらしき 名や小松吹く 萩薄

 

〇7月25日、小松の太田神社(多太八幡宮神社)に参詣したが、ここには源義朝から賜った斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があり、それを見て詠んだ句(句意は、老武者(斎藤実盛)が悲壮な最期を遂げた時に身に付けていたこの兜の下では、きりぎりすが鳴いて、その老武者の無念を伝えているようだ) 

 むざんやな 甲の下の きりぎりす

(実盛は、はじめ源義朝に仕えたが、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛に仕えた。 寿永2年(1183年)の木曾義仲との倶利伽羅峠での戦いに平維盛に従って戦い、白髪を染めて奮戦したが討死にした。その後、実盛は亡霊となって出没した。なお、句の「きりぎりす」は現在の「コオロギ」を指す)

 

〇7月27日、小松を出立して山中温泉に向かったが、その途中に花山法皇が千手観音菩薩像を安置した那谷寺の観音堂があり、境内にあるさまざまな奇石を見て詠んだ句(句意は、この那谷の石山は岩肌が所々むき出しで、白々としているが、その白さよりもさらに白い秋の風が吹いていることだ)

 石山の 石より白し 秋の風

 

〇効用が有間温泉に次ぐと言う山中温泉に入った際に、宿屋の主人和泉屋久米之助(桃妖)へ詠んだ挨拶句(句意は、菊の露を飲んで七百歳まで生きたという中国周の国の菊児童の伝説があるが、ここ山中温泉ではわざわざ菊を手折って湯に入れなくても、この湯の香りを吸っていれば700年の不老長寿が得られるに違いない)

 山中や 菊は手折らぬ 湯の匂

 

〇ここ山中温泉で、曾良は、腹の具合が悪く、伊勢の国長島に親族がいるので、先に発つことになり、8月5日、別れに際して曾良が詠んだ句(句意は、師と別れて先立って行くことになったからには、たとえ途中で萩の原に倒れようとも悔いはありません)

 行き行きて 倒れふすとも 萩の原 (曾良)

 

〇それに対して、「行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである」との思いで詠んだ句(句意は、曾良が一人先に行くことになり、今日からは「同行二人」との笠の書付も消さなくてはならない。その笠に置いている露で)

 けふよりや 書付消さん 笠の露

 

〇8月6日、加賀の大聖寺の郊外にある全昌寺に宿泊したが、今は別れた曾良が前夜ここに泊まった際に詠んだ句(句意は、一晩中秋風が吹き渡り、裏山の梢を鳴らしている。それを聞くともなく聞いていると、ますます寂しい気持ちが募って来る)

 終宵 秋風きくや 裏の山

 

〇全昌寺に宿泊し、翌朝越前の国へ出立する際に、若い僧たちから一句頼まれたが、丁度そのとき庭の柳の葉が落ちるのが見えたので詠んだ句(句意は、寺の境内に柳の葉が散り敷いている。寺に泊めてもらったお礼に、ほうきで掃いてから出発しよう)

 庭掃きて 出でばや寺に 散る柳

 

〇越前と加賀との国境、吉崎の入り江に舟を出して、汐越しの松を訪れた時に、頭に浮かんだ西行法師が詠んだ歌(歌意は、夜通し打ち寄せる波が松の木にかぶさって、松の梢に波の雫がしたたっている。それに月光がキラキラして、まるで月の雫のようだ)

 終宵 嵐に波を はこばせて 月を垂れたる 汐越の松 (西行法師)

(当時は西行法師が詠んだ歌とされていたが、実際には蓮如が詠んだ歌)

 

〇金沢の北枝とともに、知人の丸岡天龍寺長老の大夢和尚を訪ねたが、ここで北枝と別れるに当たり詠んだ句(わざわざ見送りに来てくれた北枝に、扇に一句をしたため贈ったが、いかにも名残惜しく思われることだ)

 物書きて 扇引き裂く 余波かな

 

〇その後、永平寺を訪れ、福井を経て8月14日に敦賀に入り宿泊したが、その月の美しい夜気比神社に参詣した。神前の白砂は霜を敷き詰めたようだが、昔、遊行二世の上人が土石を運んできて人が歩けるように整備した。今も代々の上人が神前に砂を運び、不自由なく参詣できるようにしている。宿の主人から「これを遊行の砂持ちと言っております」と訊いて詠んだ句(句意は、昔遊行上人が運んだと言う白砂の上を、月の光が清らかに照らしている)

 月清し 遊行のもてる 砂の上

 

〇翌8月15日は、宿の主人が語った通り雨が降ったので、詠んだ句(敦賀の湊では、仲秋の名月を見られると思っていたが、宿の主人の言葉通りに雨になってしまった。何と北国の空の気まぐれなことよ)

 名月や 北国日和 さだめなき

 

〇8月16日、空が晴れたので、西行法師の歌「汐染むる ますうの小貝 ひろふとて 色の浜とは いふにやあるらん」にある「ますほの小貝」を拾おうと種の浜に舟を出したが、浜は侘しい法華寺が一軒あるのみで、茶や酒を飲み秋の夕暮れの浜の寂しさを堪能して詠んだ2句(句意は、1句目が「光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ」、2句目が「波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている」)

 寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋

 波の間や 小貝にまじる 萩の塵

 

〇8月21日頃、敦賀まで出迎えに来た路通とともに馬に乗って美濃の国の大垣に入った。大垣では、曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばして如行の家に集合した。前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問して、まるで死んで蘇った人に会うように、喜んだり労わってくれたりした。旅の疲れもまだ取れないままに、9月6日になったので、伊勢の遷宮に参詣するため、舟に乗って旅立つ際に詠んだ句(句意は、無事にこの奥の細道の旅を終えることが出来たが、またこれから、秋も深まり行く中、伊勢の遷宮を拝むために二見の方へ別れて行くことだ)

 蛤の ふた見にわかれ 行く秋ぞ

                  (完)