更級日記の中の和歌(1) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

第1部、第2部

 

ここでは、源氏物語や伊勢物語、土佐日記など日本の代表的な古典文学の中に詠まれた和歌を紹介している。以下では前回の「紫式部日記」に続き、平安時代の代表的な日記文学である「更級日記」の中の和歌について紹介する。

 

「更級日記」は、作者(菅原孝標女)が父の菅原孝標が上総国の国司の任期を終え共に帰京した13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間を書き綴った自叙伝であり回想録である。「蜻蛉日記」(作者は藤原道綱母:菅原孝標女の叔母)や「紫式部日記」と並ぶ平安女流日記文学の代表作とされる。内容は大きく第1部(上洛;1~7段)、第2部(家居;8~22段)、第3部(宮仕え;23~26段)、第4部(物詣で;27~30段)、第5部(晩年;31~35段)の5部(全35段)に分けられる。

 

主な内容は、父の任期が終了した寛仁4年(1020年)9月に上総から京へ戻る(約90日間の旅)ところから始まり、「源氏物語」を読みふけり物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王(後朱雀天皇の皇女)家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年(1058年)秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。

 

「更級日記」には、和歌は全部で89首(内1首は連歌)詠まれており、第1部が3首、第2部が52首、第3部が13首、第4部が6首、そして第5部が15首である。以下では、これら89首を4回に分けて紹介する。

 

◎第1部(上洛)

●第1段: 門出

●第2段: 下総・まのてう、太日川

〇9月17日の朝出立した。昔、下総国に「まのてう」と言う引き布を織っていた人の住居跡があり、舟で渡ると昔の門の大きな柱が川の中に四つ立って残っていたので、菅原孝標女が詠んだ歌

 朽ちもせぬ この川柱 のこらずは 昔のあとを いかで知らまし

 

〇その夜、くろとの浜に泊まると、砂が白く松原が茂り、月がたいそう赤く風の音も心細くて、菅原孝標女が詠んだ歌

 まどろまじ 今宵ならでは いつか見む くろとの浜の あきの夜の月

 

●第3段:武蔵・竹芝寺

●第4段:相模・足柄山の遊女

●第5段:富士の山・富士川

●第6段: 遠江、三河・八橋~宮路山

〇遠江から三河の国の高師の浜、八橋を通り、宮路山を越えると10月末なのに紅葉が散らず見頃だったので菅原孝標女が詠んだ歌

 嵐こそ 吹き来ざりけれ 宮路山 まだもみぢ葉の 散らでのこれる

 

●第7段:尾張・美濃・近江・入京

 

◎第2部(家居)

●第8段: 梅の立ち枝

〇継母が父と離別することになり、梅の花が咲く頃に訪ねて来ますと言い残して去って行ったが、その年も過ぎ、梅の花が咲いても一向に訪れる気配が無かったので、菅原孝標女が思い悩んだ末に梅の花を折って書き送った歌

 頼めしを なほや待つべき 霜枯れし 梅をも春は 忘れざりけり

〇それに対して継母が詠んで書き送って歌

 なほ頼め 梅の立ち枝は 契りおかぬ 思ひのほかの 人も訪ふなり

 

●第9段: 乳母の死、侍従大納言の娘の死

〇その春世間では疫病が流行、乳母が3月1日に亡くなり、悲嘆に暮れて外を眺めると、夕日が差しているところに桜の花が散り乱れていたのを見て菅原孝標女が詠んだ歌

 散る花も また来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞこひしき

 

〇侍従の大納言藤原行成の姫君が亡くなった(16歳)と聞き、夫の中将(藤原長家:藤原道長の子;この時17歳)は嘆き悲しんだが、かつて菅原孝標女が上京した時、長家は菅原孝標女に「手本にしなさい」と言ってこの姫君が書いた拾遺集の歌(藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下 詠み人知らず)を差し上げた。 

 とりべ山 たにに煙の もえ立たば はかなく見えし われと知らなむ

 

●第10段:源氏の五十余巻

●第11段:家居の四季

〇5月1日、軒端に近い花橘が白く散っているのを見て菅原孝標女が詠んだ歌

 時ならず ふる雪かとぞ ながめまし 花たちばなの 薫らざりせば

 

〇我家の庭は木が鬱蒼と茂っているので、秋の紅葉は四方の山辺よりも一段と趣深く、訪れた客が「今来た道に紅葉が趣深く咲いていました」と言ったことに対して菅原孝標女が詠んだ歌

 いづくにも 劣らじものを わが宿の 世をあきはつる けしきばかりは

 

〇春が来るたびに一品の宮(禎子内親王:三条天皇の皇女)の庭を眺めつつ菅原孝標女が詠んだ歌

 さくと待ち 散りぬとなげく 春はただ わが宿がほに 花を見るかな

 

●第12段:猫/をかしげなる猫

〇3月末、土忌みに人の家に移ったところ、桜の盛りで趣深くまだ散らないものもあり、我家に戻った翌日に菅原孝標女が詠んだ歌

 あかざりし 宿の桜を 春くれて 散りがたにしも 一目みしかな

 

●第13段:長恨歌・をぎの葉・猫の死

〇長恨歌(漢詩)を物語に書いて持っていると聞いて、つてを頼り7月7日に菅原孝標女が詠んでお願いした歌

 契りけむ 昔の今日の ゆかしさに 天の川波 うち出でつるかな

〇それに応えて詠んだ歌

 立ち出づる 天の川辺の ゆかしさに 常はゆゆしき ことも忘れぬ

 

〇7月13日の月が明るい夜、縁側で姉と二人で話していると、隣の家の前に牛車が止まって「荻の葉、荻の葉」と供人に呼ばせる声がするが、隣の家からは答えがなく、車の男は笛を優雅に吹きながら通り過ぎて行ったので、菅原孝標女が詠んだ歌

 笛の音の ただ秋風と 聞こゆるに などをぎの葉の そよと答へぬ

〇それに対して姉がもっともと言って詠んだ歌

 をぎの葉の 答ふるまでも 吹き寄らで ただに過ぎぬる 笛の音ぞ憂き

 

〇以前住んでいた家は広々としていたが、現在の家は狭く、向いにある家には白梅・紅梅が咲き乱れて、風が吹くと梅の香が匂ってくるので、かつての家が限りなく思い出され、菅原孝標女が詠んだ歌

 匂ひくる 隣の風を 身にしめて ありし軒端の 梅ぞこひしき

 

●第14段:姉の死

〇翌年の5月1日、姉が子を産んで亡くなり家族は嘆き悲しんだが、姉の法要が過ぎて親族から、姉が生前欲しがっていた物語「かばねたづぬる宮」が妹の菅原孝標女に送られてきたので、菅原孝標女が詠んで親族へ送った歌

 うづもれぬ かばねを何に たづねけむ 苔の下には 身こそなりけれ

 

〇姉の乳母が、姉が亡くなったので泣く泣く実家に帰っていくのに対して菅原孝標女が詠んだ歌

 ふるさとに かくこそ人は 帰りけれ あはれいかなる 別れなりけむ

 

〇「亡き姉をしのぶ形見にどうか留まって欲しい、硯の水も凍ってしまったので、文字も私の心も閉じられて何も書くことができません」など書いて、菅原孝標女が姉の乳母へ詠んで送った歌

 かき流す あとはつららに とぢてけり なにを忘れぬ かたみとか見む

〇それに対して姉の乳母が詠んだ歌

 なぐさむる かたもなぎさの 浜千鳥 なにかうき世に あともとどめむ

 

〇この乳母は姉の墓所を訪れて泣く泣く帰っていったが、それに対して菅原孝標女が詠んだ歌

 昇りけむ 野辺は煙も なかりけむ いづこをはかと たづねてか見し

 

〇これを聞いて継母だった人が詠んだ歌

 そこはかと 知りてゆかねど 先に立つ 涙ぞ道の しるべなりける

 

〇「かばねたづぬる宮」という物語を贈ってくれた人が詠んだ歌

 住みなれぬ 野辺の笹原 あとはかも なくなくいかに たづねわびけむ

 

〇これを見て菅原孝標女の兄が、姉の葬送をした夜のことを思い出して詠んだ歌

 見しままに もえし煙は つきにしを いかがたづねし 野辺の笹原

 

〇何日も雪が降り続けるころ、吉野山にすむ尼のことが思いやられて菅原孝標女が詠んだ歌

 雪降りて まれの人めも たえぬらむ 吉野の山の 峰のかけみち