枕草子の中の和歌(2) | 俳句の里だより2

俳句の里だより2

俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

第106段~第241段

 

ここでは、「源氏物語」と並び古典(平安時代)文学の傑作とされる「枕草子」(全319段、作者は清少納言、成立は長保3年(1001年)頃)の中で詠まれた和歌(36首、全319段のうち25段に記載)について、3回に分けて紹介している。前回は、第23段~第99段までの14首を紹介したが、ここでは第106段~第241段までの11首を紹介する。なお、第136段の中の歌「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」は百人一首にも採られている清少納言の代表歌として知られている。

 

●第106段「二月つごもり頃に」

〇2月末の雪がちらつく頃、主殿司が宰相藤原公任の手紙を持って来たが、それに下の句(7・7)の「少し春ある 心地こそすれ」が書いてあり、宰相への返歌(上の句(5・7・5))を催促されたので、清少納言が「空寒み 花にまがへて 散る雪に」と書いて主殿司に渡した。

 空寒み 花にまがへて 散る雪に 少し春ある 心地こそすれ

 

清少納言はこの「上の句」が気になっていたが、後に左兵衛督から歌の評判がいいので「宰相源俊賢が清少納言を内侍に任命しようと天皇に奏上することを決めた」と清少納言に語った。

 

●第131段「七日の日の若菜を」

〇正月七日の日の若菜を、六日に人が持ってきて大騒ぎしているところへ、子供が見知らぬ草を持って来たのでその名を尋ねると、誰かが「耳無草です」と言った。清少納言は「それで聞いても知らない顔をしてたのね」と笑うと、今度はとても可愛らしい菊の生え出たのを持って来たので、清少納言は

 つめどなほ 耳無草こそ あはれなれ あまたしあれば きくもありけり

と詠んだが、これも子供には分からないだろう。

 

●第136段「頭の弁の、職に参り給ひて」

〇頭の弁(藤原行成)が参上して話していると夜が更けたので「明日は帝の物忌なので」と言って参内した。翌朝、行成が清少納言に手紙で「一晩中昔話でもして夜を明かそうとしたのですが、鶏の声に急き立てられて」と寄こしてきたので、清少納言が「夜更けに鳴いたという鶏の声は、孟嘗君のですか」と返事をすると、行成が「孟嘗君の鶏は、函谷関を開いて三千の食客がかろうじて逃げたと本にあるが、私が言ったのは逢坂の関のことです」と寄こしたので、清少納言が詠んだ歌

 夜をこめて 鷄の空音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ

 

〇清少納言が逢坂の関にもしっかりとした関守がいますと歌で返事をすると、行成がそれに対して詠んだ歌

 逢坂は 人越えやすき 関なれば 鷄鳴かぬにも あけて待つとか

 

●第138段「円融院の御はての年」

〇円融院(一条帝の父)の喪が明けた年、藤三位(一条帝の乳母)のところに大柄な男童が手紙を持って来たが、藤三位は物忌なので翌朝手を洗い清めて開けて見ると、法師のくせの強い筆蹟で

 これをだに かたみと思ふに 都には 葉がへやしつる 椎柴の袖

と書いてあるので、清少納言は「誰が書いたのだろうか、仁和寺の僧正ではなく藤大納言(藤原為光:藤三位の兄)のようなので、早く帝や中宮定子様へ申し上げなければ」と思いつつ、翌朝、藤大納言のところへ返歌をすると、すぐに藤大納言から返歌があり藤三位に届けられた。

 

●第182段「村上の前帝の御時に」

〇村上帝が女房の兵衛の蔵人をお供にして誰もいない時に歩いていると、火櫃から煙が立っていたので、「あれはなんだ、見て来い」と言ったので、それを見て帰って来て兵衛の蔵人が帝に

 わたつ海の 沖にこがるる 物見れば あまの釣して 帰るなりけり

と奏上した。蛙が飛び込んで焼けていたとのこと。

 

●第184段「宮にはじめて参りたるころ」

〇 中宮定子に初めて参上した頃、定子が女房達たちに「私を愛しく思うか」と訊いた時、清少納言が「そうです」と返事した途端に誰かが大きなくしゃみをしたので、定子が「まあ嫌なこと。嘘を言ったのね。もういいわ」と言って行ってしまった。清少納言は「そんなことはないのに、誰がこんな憎らしいことをやったのか」と思ったが、まだ宮仕えの始めで慣れないので定子へ弁解することが出来ず夜が明けてしまった。すると、定子の使いが清少納言に手紙を持ってきたので開けて見ると

 いかにして いかに知らまし いつはりを 空にただすの 神なかりせば

と書いてあり、清少納言は定子がまだ疑っているのが悔しく心が乱れるばかりで、昨夜くしゃみをした人を憎みたく思うとともに、

 薄さ濃さ それにもよらぬ はなゆゑに 憂き身のほどを 見るぞわびしき

と詠み、「これだけはよろしく申し上げてください。式の神も自然と見てくれているでしょう。嘘をつくなど畏れ多いことです」と書いて、定子へ差し上げた。

 

●第239段「三条の宮におはします頃」

〇三条の宮に皇后(定子)が居住していた頃、衛府から五月五日の菖蒲の輿などを持って来て薬玉を献上していた。とても風雅な薬玉がいろいろな所から献上されたが、その中に青ざし(菓子の名)という物があったのを、清少納言が青い薄様をしゃれた硯箱の蓋に敷いて「これはませ越しの麦でございます」と定子に見せると、定子は清少納言が差し上げた紙の端を破って

 みな人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける
と歌を書いた。なお、「ませ越しの麦」とは、「ませ越しに 麦はむ駒の はつはつに 及ばぬ恋も 我はするかな」の歌を踏まえている。当時定子は妊娠中で食欲がなく、清少納言は定子に青ざしをわずかでも食べてほしいと勧めた。

 

●第240段「御乳母の大輔の命婦」

〇乳母の大輔の命婦が日向へ下る時に、中宮定子が大輔の命婦へ与えた扇の中に、片面は日がのどかに射している田舎の館など、もう片面には京の雨がひどく降っている絵に、定子が詠んだ歌が自筆で書かれており

 あかねさす 日に向かひても 思ひ出でよ 都は晴れぬ ながめすらむと

清少納言は、このような慈愛深い主君を見捨てて、遠方へ行くことはできないだろうと思う。

 

●第241段「清水へこもりたりしに」

〇清水寺に参籠していた時、中宮定子からわざわざ使いを出していただいた手紙は、唐の紙に定子が詠んだ歌

 山近き 入相の鐘の 声ごとに 恋ふる心の 数は知るらむ

と「それなのに、ずいぶん長い滞在ね」と書かれており、清少納言は紙を持ってこなかったので、紫色の蓮の花びら(造花)に返歌を書いて差し上げた。