大和物語の中の和歌(12) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

第162段~第173段

 

このシリーズでは、「伊勢物語」に続き、平安時代中期(10世紀後半~11世紀初期)に成立した歌物語である「大和物語」(全173段、作者や成立年は不明)の中で詠まれた和歌(295首)について、第1段から順に紹介しているが、今回をもってこのシリーズも終りとなる。前回は、第148段~第161段までの24首を紹介したが、ここでは第162段~第173段までの24首を紹介する。

 

このシリーズの最初(1)に記したように、内容は、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なっているが、伊勢物語(主人公は在原業平?)とは異なり統一的な主人公はいない。第140段までの前半部は当代に詠まれた歌を中心に、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、141段からの後半部は、悲恋や離別、再会など人の出会いと歌を通した古い民間伝説が語られており、説話的要素の強い内容となる。また、歌物語である「伊勢物語」の影響を大きく受けているが、一方において、後半部では歌中心というよりも話の筋・趣向、叙述に興味の重点が移っていることから、やがて到来する本格的な散文の物語の時代を予告している。

 

●第162段「忘れ草」

〇在中将(在原業平)が宮中に仕えていた頃、御息所から「忘れ草」(「しのぶ草」とも言う)を「これは何ですか」と言って与えられたので、在中将が詠んで答えた歌

 忘れ草 生ふる野辺とは 見るらめど こはしのぶなり のちも頼まむ

 

●第163段「菊の根」

〇在中将(在原業平)が、后の宮(二条の后宮:藤原高子)から菊が欲しいと言われたので、菊と共に詠んで贈った歌

 植ゑし植ゑば 秋なき時や 咲かざらむ 花こそ散らめ 根さへ枯れめや

 

●第164段「飾りちまき」

〇在中将(在原業平)が、ある人から「飾りちまき」を送ってもらったので、その返事に雉を添えて送り詠んだ歌

 あやめ刈り 君は沼にぞ まどひける われは野にいでて かるぞわびしき

 

●第165段「つひに行く道」

〇清和天皇の時代、弁の御息所という天皇に仕える女性がいたが、天皇が出家した後に一人でいたのを在中将(在原業平)が忍んで通っていた。やがて在中将が重病になり、女性は忍んで手紙を出していたが、死期が近づいた在中将が詠んだ歌

 つれづれと いとど心の わびしきに けふはとはずて 暮らしてむとや

 

〇女性はそれを見て号泣し、返事を出そうとした時に在中将死去の知らせを受けたが、死の直前に在中将が詠んだ歌

 つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりしを

 

●第166段「女車の人」

〇在原業平が物見に出かけた時、由緒ある車に乗った女を眺め言葉を交わした翌朝、女に詠んで贈った歌

 見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しきは あやなく今日や ながめ暮らさむ

〇それに応えて女が詠んだ歌

 見も見ずも たれと知りてか 恋ひらるる おぼつかなみの 今日のながめや

 

●第167段「雉雁鴨」

〇男が妻の着物を借りて新しい妻の元へ出向き、着古した後に送り返す際、お土産に「雉・雁・鴨」を添えた時に、元の妻が詠んだ歌

 いなやきじ 人にならせる かりごろも わが身にふれば 憂きかもぞつく

 

●第168段「僧正遍照」

〇仁明天皇の時代、良少将(良岑宗貞:出家後に僧正遍照)が、通っていた女のもとに「今宵必ず」と言って来なかったことがあったので、その時に女が詠んで良少将に送った上の句(5・7・5)と、それを見て寝坊したことに驚き良少将が詠んだ下の句(7・7)の歌

 人心 うしみつ今は 頼まじよ 夢に見ゆやと ねぞすぎにける

 

〇仕えていた天皇が亡くなり、良少将の消息が不明となっていたが、妻のひとりが泊瀬の寺の導師に涙を流し相談した際、良少将は傍で聞いていて逃げ出しそうになり、そんな良少将(僧正遍照)が亡き天皇の喪が明けた時に詠んだ歌

 みな人は 花の衣に なりぬなり 苔のたもとよ かはきだにせよ

 

〇詠んだ歌で良少将が法師になったことが人々に知られることとなり、亡き仁明天皇の妃(五条の后宮)がようやく探し当てたとき、良少将(僧正遍照)が「恥ずかしくも生きながらえています」という返事とともに詠んだ歌

 かぎりなき 雲ゐのよそに 分かるとも 人に心を おくらさめやは

 

〇小野小町が正月に清水寺に参拝した時、お経を読む声と姿が良少将に似ていたのでもしやと思い、人を介して男に「お寺を訪れましたが、大変寒いので衣服を貸してくれませんか」と詠んだ歌
 岩のうへに 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我にかさなむ

〇それに応えて男(良少将:僧正遍照)が詠んだ歌

 世をそむく 苔の衣は ただひとへ かさねばうとし いざふたり寝む

 

〇その歌を見て小町は逢おうと思ったが、またどこかへ去ってしまった。その後、良少将は僧正になり花山寺に住み着いた。また、息子は左近将監だったが出家させた(法師にした)後に、良少将(僧正遍照)が詠んだ歌

 折りつれば 手ぶさにけがる たてながら 三世の仏に 花たてまつる

 

〇出家させられた遍照の息子(由性:素性法師の兄)は、親族の人の娘のもとへ通っていたが、家族にばれて遠ざけられてしまった。その後、娘の兄らが由性を訪れた時に、兄の衣服のくびに由性が詠んで書きつけた歌

 白雲の やどる峰にぞ おくれぬる 思ひのほかに ある世なりけり

 

この兄(兵衛の尉)は由性が衣服に歌を書きつけたことを知らずに京へ戻ったが、妹(娘)がこれを見つけて哀れに思った。後に、由性は僧都になって「京極の僧都」と呼ばれた。

 

●第169段「井手をとめ」(途中で文章が切断されている。歌も記載なし)

〇昔、ある内舎人が大和国に下った時、井手というところに、女が可愛らしい6、7歳の子供を抱いていたので、呼び寄せて「大きくなったら迎えに来るから、私の妻にするように」と言って、形見として自分の帯を渡し、子供の帯を解き手紙を結び付け持たせて去った。七、八年が過ぎた時、男は忘れてしまったが子供はそれを忘れず、また男が大和へ出向き、井手の宿で見ていると、前にある井戸で水を汲んでいた女たちが、このように言うのだった・・・(以下、切断)

 

●第170段「青柳の糸」

〇藤原伊衡が中将だったころ、風邪を引くと兵衛の命婦が薬としての酒や肴を下さったので、「大変嬉しいです。思いがけず風邪を引いてしまいました」とお礼を述べて詠んだ歌

 青柳の 糸ならねども 春風の 吹けばかたよる わが身なりけり

〇それに対して兵衛の命婦が詠んだ歌

 いささめに 吹く風にやは なびくべき 野分すぐしし 君にやはあらぬ

 

●第171段「くゆる思ひ」

〇左大臣の藤原実頼が少将だったころ、式部卿の宮に仕えていた大和(女性)と実頼は恋仲だったが、いつもは逢えなかったので大和が詠んだ歌

 人知れぬ 心のうちに もゆる火は 煙もたたで くゆりこそすれ

〇それに応えて実頼が詠んだ歌

 富士の嶺の 絶えぬ思ひも あるものを くゆるはつらき 心なりけり

 

その後、女(大和)は少将(実頼)にしばらく逢えなかったので、女は何を思ったか、みずから左衛門の陣に牛車をやって、そこを通る役人を留めては「少将の君にお話があります」と繰り返すのだった。とうとう実頼の耳に届いて、左衛門の陣に屏風や畳を敷き彼女を引き入れ、実頼が「どうしてこのようなことを」と尋ねると、女は「あまり来られないので・・・」(以下、切断)。

 

なお、ある諸本の書き入れには、「後撰歌 あつよしのみこの家にやまとといふ人に 左大臣」とあり、続けて

「今さらに 思ひいでじと しのぶるを こひしきにこそ わすれわびぬれ」の歌が紹介されている。

 

●第172段「打出の浜」

〇亭子の帝(宇多天皇)が石山寺につねに参詣していたので、近江国の国守が「民が疲労し国は滅びるであろう」と言ったのが天皇の耳に入った。そのため天皇は他国に負担させて石山寺に参詣したので、自分の言葉が天皇の耳に入ったことを恐れた国守が、琵琶湖の打出浜にすばらしい仮屋を設け、恐れ多いので自分は隠れて、大伴黒主だけが仮屋で天皇を待っていた。そこに来た天皇が「黒主は何でここに居るのだ」と尋ねると、それに答えて大伴黒主が詠んだ歌

 ささら浪 まもなく岸を 洗ふめり なぎさ清くは 君とまれとか

 

●第173段「五条の女」

〇正月10日、良岑宗貞の少将(後の僧正遍照)が、五条のあたりで雨宿りのために立ち寄った荒れた屋敷に入ると、梅が美しく咲き、鴬が鳴き、御簾の内から薄色の衣と濃い衣を上に着た髪の長い人が見え、その人が独り詠んだ歌

 蓬生ひて 荒れたる宿を 鴬の 人来と鳴くや たれとか待たむ

〇それに応えて良岑宗貞が詠んだ歌

 来たれども 言ひし馴れねば 鴬の 君に告げよと 教へてぞ鳴く

 

〇そして良岑宗貞(少将)は雨宿りを求めて屋敷に上がり、女と一夜を共にした。翌日、女の親は少将をもてなすほどの物が無いので、固い塩を肴にして酒を飲ませ、庭の菜を摘んで蒸し物にして茶碗に盛り、箸には盛りの梅の花を折ってその花びらに、女が詠んで少将へ書いて差し出した歌

 君がため 衣の裾を ぬらしつつ 春の野に出でて 摘める若菜ぞ

 

〇歌を見て少将(良岑宗貞:僧正遍照)は大変哀れに思い引き寄せて食べたが、女は恥ずかしいと臥してしまった。それで、少将は牛車で生活に必要な物を取り寄せ、その後少将は絶えず通うようになった。また、いろいろ食べたがあの時の食事くらい素敵なものはなかったと、後に回想した。というのも、年月を経て仕えていた帝が亡くなられたので、少将は出家して法師になったからである。ある時、もとの女に袈裟を洗いに出すと言って少将が詠んだ歌

 霜雪の ふる屋のもとに ひとり寝の うつぶしぞめの あさのけさなり  

                                      (完)