巻第7、巻第8
このシリーズでは、鎌倉時代初めに書かれた軍記物語「平家物語」(巻第1~巻第12と別巻(灌頂巻)で構成、作者は不詳)の中の和歌(100首)について、巻第1から順に紹介している。前回は、巻第5の11首及び巻第6の8首の計19首を紹介したが、ここでは巻第7の10首及び巻第8の8首の計18首を紹介する。
◎巻第7(以下の20章より構成:清水冠者、北国下向、竹生島詣、火打合戦、願書、倶利伽羅落、篠原合戦、実盛、玄肪、木曾山門牒状、返牒、平家山門連署、主上都落、維盛都落、聖主臨幸、忠度都落、経正都落、青山之沙汰、一門都落、福原落)
●3章「竹生島詣」より
〇木曽義仲討伐のため平家は北陸へ進軍した時、途中の琵琶湖で琵琶の名手・平経正は竹生島へ上陸し、明神に戦勝祈願をした際に詠んだ歌
ちはやぶる 神に祈りの かなへばや しるくも色の あらはれにけり
●12章「平家山門連署」より
〇木曽義仲の上洛に際し、平家は延暦寺が源氏への味方を決めたことを知らず延暦寺に書状(願書)を送ったが、最初は無かった願書の包み紙へ現れた平家の凋落を暗示する歌
平らかに 花咲く宿も 年経れば 西へ傾く 月とこそ見れ
●13章「主上都落」より
〇木曽義仲の上洛を前に、平家は安徳天皇と後白河法皇の都落ちを図り、法皇は事前に鞍馬へ御幸した(逃れた)ため、安徳天皇を連れて御幸した(逃げた)際に、すれ違った一人の童子が詠んだ藤原氏の行く末心細きを暗示する歌
いかにせん 藤の末葉の 枯れゆくを ただ春の日に まかせてやみん
●16章「忠度都落」より
〇木曽義仲の軍勢が都へ迫り平家一門は西国へ都落ちするが、薩摩守忠度(平忠度)は途中で引き返し、歌道の師藤原俊成の邸を訪ね、後に勅撰集に一首でも入れて欲しいと俊成に託した忠度の歌(後に「読人知らず」として千載集へ)
さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
●17章「経正都落」より
〇平家一門都落ちに際し、平経正は幼少の頃お世話になった仁和寺の御室法親王を訪ね、以前授かった大事な琵琶「青山」を涙ながらに法親王へ託した際に、哀れに思い法親王が詠んだ歌
あかずして 別るる君が 名残をば 後の形見に つつみてぞおく
〇それに応えて経正が別れる際に詠んだ歌
呉竹の 筧の水は かはれども なほすみあかぬ 宮の中かな
〇経正が仁和寺を去るに当たり、経正が幼少の時に若い僧だった大納言法印行慶が桂川の畔まで見送り詠んだ歌
あはれなり 老木若木も 山桜 おくれ先だち 花は残らじ
〇それに応えて経正が詠んだ歌
旅衣 よなよな袖を かた敷きて 思へば我は 遠くゆきなん
●19章「一門都落」より
〇平家一門の都落ちに際し、住みなれた都を離れ、遠い旅路におもむく心細さを、大納言平時忠が「我等を都へ帰し入れさせたまえ」と祈り詠んだ歌
はかなしな 主は雲居に 別るれば 宿は煙と 立ちのぼるかな
〇同じく、修理大夫平経盛が詠んだ歌
故郷を 焼野の原と かへりみて 末も煙の 波路をぞ行く
◎巻第8(以下の11章より構成:山門御幸、名虎、緒環、太宰府落、征夷将軍院宣、猫間、水島合戦、瀬尾最期、室山、鼓判官、法住寺合戦)
●1章「山門御幸」より
〇高倉院の皇子の四の宮(後の後鳥羽天皇;安徳天皇の弟)の即位に貢献した 紀伊守藤原教光は、四の宮即位後もたいした恩賞の無いまま長い年月が流れ、思い余って昇進を訴えて教光が詠んだ歌2首
一声は 思ひ出でなほ ほととぎす 老その森の 夜半の昔を
籠の内も なほうらやまし 山がらの 身のほど隠す 夕顔の宿
●2章「名虎」より
〇寿永2年8月、平家は都落ちして筑前国大宰府に着き、菅原道真を祀った大宰府安楽寺で奉納のための連歌の会を催した際に、本三位中将平重衡(平清盛の5男)が詠んだ歌
住み馴れし ふるき都の 恋しさは 神も昔に 思ひしるらむ
●3章「緒環」より
〇筑紫の大宰府へ都落ちした平家一門は宇佐八幡宮へ参詣し、七日目の朝に大臣(平宗盛)の夢に出た平家の行く末を悲観する宇佐八幡のお告げの歌
世の中の うさには神も なきものを 心づくしに なに祈るらん
〇それに対して、平宗盛が驚き、胸騒ぎがして心細くなり口ずさんだ古歌(千載集にある藤原俊成作)
さりともと 思ふ心も 虫の音も 弱り果てぬる 秋の暮れかな
〇9月13日の名月に、平家の人々は都を思う心細さに包まれ歌を詠んだが、その時に薩摩守平忠度が詠んだ歌3首
月を見し 去年の今夜の 友のみや 都に我を 思ひ出づらん
〇同じく、修理大夫平経盛が詠んだ歌
恋しとよ 去年のこよひの 夜もすがら 契りし人の 思ひ出でられて
〇同じく、皇后宮亮平経正が詠んだ歌
わけてこし 野辺の露とも 消えずして 思はぬ里の 月を見るかな